投稿

Vol.24 「ヘミングウェイの庭」

イメージ
 Vol.24 「ヘミングウェイの庭」 アメリカを車(僕の場合はバス)で横断していると、不思議な気分に襲われる時がある。それは何の代わり映えもない景色をずっと走り続けている時に。車はずっと続く一本道を何時間も走っている。やがて遠く、地平線の向こうに小さな町がおぼろげに見えてくる。最初は小さな町があるのだなと認識するが、それが次第に様相を呈し、巨大な都市として姿を現すのだ。この感覚は日本では味わったことがなかった。 その日も僕は車窓からの風景に見飽きてしまい、夜ともあってウツラウツラとしていると、遠くに小さな町の光を見つけた。てっきり次の停車駅であるマイアミに到着するのだと思っていた。すると、何も無いフリーウェイに突如、光り輝く未来都市が出現したのだ。僕は叫んだ(勿論、心の中で)「あれは未来都市だ!僕は鉄腕アトムで見たぞ!」と。とにかくバスの中で興奮しながらアタフタしていた。と同時に「どうして乗客たちはもっと驚かないのだろう?バスの運転手はのんびりしている」そう不思議に思っていた。結論を言えば何て事はない「ディズニーワールド」だった。今と違って情報の少ない時代だったから、それが何か分からずにひたすら驚いたのだ。誰もが知るディズーワールドを、闇の中に浮かぶ未来都市と勘違いしたことは恥ずかしい思い出のひとつだ。 僕の叔母さんが住んでいる近くに、ヘミングウェイの家があると言う話を聞いて行ってみた。そこはキーウエストという場所で、アメリカの最南端だった。僕はついに南の端まで来てしまったのだ。キーウエストは小さな島々の最先端にあって、キューバのハバナが目と鼻の先である。セブンマイルスブリッジによりアメリカと結ばれており、その長い橋を車で渡っていると、青い海を間近に感じることが出来て、まるで船に乗っているような気分だった。美しい島だった。19世紀に建てられた南国ビクトリア風の木造の屋敷が数多く残っており、それがヤシの木に覆われているのを眺めていると、人が豊かに生きる理想の土地のように感じられた。 その頃から建築物にも興味があったのだろう、ビクトリア風の住まいを体験したくてヘミングウェイの家を訪れた。観光地として人気が高く、僕が到着した頃には家中が客でごった返しており、全く落ち着く気分ではなかったが、庭に出てのんびりしていると、ランチタイムなのか客もまばらとなり、ようやく落...

Vol.23「約束の地」

イメージ
 Vol.23「約束の地」 フロリダ州はアメリカでも有数の観光地で、白い砂浜が続くリゾートビーチや、ユニバーサルスタジオ、ディズニーワールドといった人気の観光スポットが数多くある。この地には沖縄在住の時にもお世話になった母の妹(僕の叔母さん)がアメリカ人の旦那さんと住んでおり、久しぶりの再会を果たすために訪れた。僕の叔母さんはマイアミから約40キロ離れたフォートロードデイルの基地に住んでいた。バスを降りると、夏の日差しが強烈で眩しかったが、優しい風が吹いていた。その風にあたっていると、初めての土地なのに何だか懐かしい気分になった。故郷の沖縄に似ていると思い、後で確認してみたら、立地が沖縄とほぼ同緯度ということだった。何か心がざわつき、僕はこの土地がきっと好きなるだろうと予感がした。 叔母の旦那さんは、沖縄で出会って結婚したアメリカ空軍のパイロットで、住まいも基地の中だった。基地内の住居は広々とした敷地で芝生の緑が優しく、揺れるブランコが基地の中だというのに安らぎを感じさせてくれて居心地が良かった。叔母の住む世界には、僕が思い描いたようなアメリカの生活が詰まっていた。テーブルや冷蔵庫が象徴する大型家具や家電品。生活必需品は全て大きく、間取りも充分だった。叔母の子どもたちが冷蔵庫から大きなプラスチックボトルの牛乳を両手で取り出すのを見ると、「豊かだなあ」と唸ってしまう。アメリカでは普通の牛乳を「Whole milk」と言い、量は様々だが、僕が見たのはなんと1ガロン(4リットル)サイズだ。4リットルの市販牛乳って見たこともなかった。子どもが多い家庭には置いているらしい。多分、僕が来たことでガロンサイズにしたのだろう。さらに驚いたのは、当時はまだそれなりに高かったビールが、水よりも安い飲み物として扱われていたことだった。とにかく叔母さん夫婦はビールを良く飲んでいた。仕事が終わると、旦那さんは同僚たちを連れてきて、庭でバーベキューをするのが常だった。分厚くビッグサイズのステーキにビールが山ほどもあった。それを眺めているだけで「マイク、もう心配することは何もない」と言われている気がした。庭の芝生に座り、沈みゆく夕日を眺めながら優しい風を受けていると、僕は終の住処となる理想の地へ来たのだと思えてならなかった。 日中は沖縄のように日差しが強く、暑くてとても外では遊べない。だ...

Vol.22 「今宵、バーボンストリートで」

イメージ
 Vol.22 「今宵、バーボンストリートで」 グレイハウンドはテキサス州ダラスを離れ、隣のルイジアナ州に向かっていた。今回の目的は全米有数の観光都市であり、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズを見ることである。少年の頃から音楽好きだった僕には、今回の旅の中でも楽しみにしていた場所のひとつだった。ニューオーリンズはアフリカ、フランス、ネイティブアメリカ、カナダ、ハイチ、スペインなど様々な文化が入り混じり、それが独自の文化を築き上げてきた。何だか沖縄にも通じる土地のようだ。ダラスからバスで13時間ほど走ると、ニューオーリンズに到着した。僕はホテルをチェックインしてから(大人気の観光地なので、ホテルの値段が高く、そのため比較的安いホテルは中心地から少し離れた所にあった)、フレンチクォーターをだらだらと歩いた。ヨーロッパの街並みが残った街角では、ダンスを踊る者たちや、楽器を演奏する者たちで、音楽で満ち溢れていた。僕は音の洪水を全身に浴びながらゆっくりと歩いていた。日が暮れ始めると、レストランやバーが店を開けはじめ、通りは観光客で埋め尽くされ、さらに音楽が飛び交い、もはやお祭り状態だった。街そのものが箱庭的と言うか、アミューズメントパークのようだった。 僕は迷う事なくバーボンストリートの目と鼻の先にあるプリザベーションホールへと向かった。そこは1961年にオープンした場所で、ジャズの殿堂とも呼ばれている。歴史ある建築物はオンボロの掘っ建て小屋(良く言えば、崩れかけの倉庫)のようであったが、それがまたジャズを聴く雰囲気を醸し出していた。ホールに入ってしばらくすると、待ちに待った演奏がはじまった。場内は観光客で一杯になり、立ち見席までギッシリと埋まっていた。演奏者のほとんどが高齢のお爺さんたちで、しかし奏でる音は聴く者たちをたちまち魅了した。ニューオーリンズスタイルであるデキシーランドジャズが存分に聴けて僕は音楽に酔ってしまった。この歴史あるホールの雰囲気にも飲み込まれたのだろう。 ジャズ発祥の地。だがそのはじまりは黒人の貧しさだった。1863年、南北戦争に勝利し、自由を手にした黒人奴隷たち。しかし職が少ない者たちが街に溢れ出した。そしてダンスホールや酒場などで楽器演奏をはじめた。この歴史あるプリザベーションホールでさえ、最初は客を呼び込むためだけの黒人たちに演奏させた...

Vol.21 「ダラスの熱い日」

イメージ
 Vol.21 「ダラスの熱い日」 バスは荒野を走り続けていると、白い砂塵の中からダラスという大きな街が現れた。僕は予定通りここで下車した。ダラスでの目的は、アメリカで最も人気の高かった大統領、ロバート・ F ・ケネディが暗殺された場所を見たかったからだ。少年の頃、そのニュースを聞いて「アメリカで一番偉い人が殺された」と、衝撃と共に記憶に残っていた。ダラスは軍事産業や油田で繁栄し、その後も続々と大企業が集まってきた経済都市としての印象が強い。テキサス州はアメリカでも二番目に大きな州で(一番はカリフォルニア州)、その面積は日本1.8倍もある。現在は日本企業のトヨタも進出している。そのせいか通りでもよく日本人を見かけ、ダイソーや紀伊國屋、牛角にくら寿司もあるそうだが、僕が訪れた時代は日本人を見ることはなかった。ちなみにダラスはセブンイレブン発祥の地でもある。とにかくやたら大都会なので、僕はいろいろと観光しようと計画を立てていた。 最初に訪れたかったのは、やはりケネディ大統領が暗殺されたディーリープラザナショナルヒストリックランドマークディストリクトという、やたらと長い名前の場所だった。目的地の名前を覚えられないから迷子になっては大変だと、わずか徒歩5分という近場のホテルを予約していた。ホテルで少し休憩し、そろそろ出発しようかと思っていた矢先に僕の体内に異変が起きた。バスに長時間も揺られていたからか便秘になってしまったのだ。確かにバスでもお腹の具合が気になっていたし、体の不調も気になっていた。それが次第に重く鈍い痛みとして現れだしたのだ。「とにかく出すものを出して、さっさと出かけよう」。僕はまだ楽観的な気持ちでトイレに向かった。 結局、僕は1日中ホテルの部屋(正確に言えばトイレ)にこもり、ひたすら力を振り絞った。本当に1日中だ。腹痛はどんどん酷くなり、吐き気にも襲われた。玉のような汗が大量に飛び出したが、便は飛び出なかった。永遠と思われるほどの時間を便器に座り続けた。「このままここで死ぬのではないか?」と思えた。苦しみが続く中、僕はひたすら便座の壁を見つめていた。原因を考えてみた。それは今回の旅行での食生活に関わる重大なことだった。理由は少しでも長い時間をアメリカで過ごしたいためだった。手持ちの金は決まっているため、お金を節約した分だけもっと長く、もっと遠くへ行け...

Vol.20 「モーテルにて」

イメージ
 Vol.20 「モーテルにて」 グレイハウンドバスでのアメリカ大陸横断がはじまった。宿泊はなるべく安く済むように心がけた。バスターミナルの長椅子で寝たり、深夜便で移動しながら朝を迎えることもあった。ホテルは大抵が安いモーテルだった。アメリカのモーテルは、日本のようなラブホテルと同様な扱いではなく、格安のビジネスホテルと言った方がピッタリだ。長距離ドライブの客が多いためにフリーウェイの近くにあり、サービスも最小限、場所によっては半年や1年以上も長期に渡って宿泊する者もいる。住居を追われた貧困層たちの最後の逃げ場ともなっており、今でもアメリカの深刻な貧困問題のひとつとなっている。 砂漠地帯をバスは煙を立ててひたすら走り、ニューメキシコ州のアルバカーキに到着した。砂漠の真ん中に町がポッカリあるような所で、多くのネイティブアメリカンが住んでいるという。僕は慣れないバス旅行で疲れ果てており、ターミナルに到着するやいなや、近くの安いモーテルへと直行した。僕はなるべく静かな部屋がいいと思い、フロントから一番離れた角部屋を頼んだ。部屋は小さいがこざっぱりとしていた。ライトは間接照明しかないので日本人の僕には薄暗く感じた。シャワーを浴びる後で飲むビールが欲しくてフロントへと向かった。部屋から出ると、すぐ隣の部屋前でひとりの初老の大男が夕涼みなのか椅子を出して座ってビールを飲んでいた。大男はかなり太っていて、暑いのか上半身は裸だった。僕が軽く会釈して通り過ぎようとすると、大男が話しかけてきた。気さくな方で、ビールを買いに行くと話すと「ビールなら部屋にあるから一緒に飲もう」と誘ってくれた。 大男の部屋には僕の部屋と同じく、ベッドと小さな食卓テーブルしかなかった。ただ、ベッド横のサイドボードには(おそらく妻であろう)女性の写真が飾ってあった。僕たちは椅子に腰掛けて、ビールを飲みながら話をした。彼がこのモーテルの長期滞在者であること知った。写真の彼女は生きているのだろうか?それとも遠く離れた場所で彼の帰りを待っているのだろうか?気になって写真の女性を尋ねてみると、「ガールフレンドだ」とだけ彼は答えた。ビールを2、3本ほど飲むと、旅の疲れか酔いも早く眠くなった。大男は「暑いからシャワーでも入りなよ」と言ってくれた。普段なら断るのだが、ビールで気分が良かったこともあり、彼の部屋でバスル...

Vol.19 「グレイハウンドの旅」

イメージ
 Vol.19 「グレイハウンドの旅」 1977年の夏、僕は人生で2度目のロサンゼルスへと旅立った。今回は3ヶ月という長い時間をかけて、大陸を隅々まで見渡す予定だった。交通機関はグレイハウンドバスを利用した。グレイハウンドはアメリカ全土を網羅する格安長距離バスのことで、創業は1913年と古く(車が一般に普及する前)、国内を旅するには一番安い移動手段だった。今でこそ誰もが乗るメジャーなバスと認知されており、シートもゆったりして、ドリンクフォルダーやWi-Fi設備もあって快適になったのだが、当時は予定時間に到着することは滅多になく、それどころか数時間の遅れが当たり前で、運転手はサービス精神のかけらも無く、車内では平気でマリファナが吸われていた。バスの中だけでなく、場所によっては駅の治安も悪かった。当時、グレイハウンドは「貧しい人の乗り物」と教わった。乗ってみるとその通りで、乗客に白人の姿は無く、黒人かメキシコ人、又はプエルトリコ人たちがほとんどだった。しかしグレイハウンドのメリットは何といっても料金が安いことだ。さらに周遊券があること。チケット一枚でアメリカ全土、どこでも行くことが出来るし、いつでも好きな場所に立ち寄ることが出来る。金は無いが時間だけはあった僕にはグレイハウンド一択しかなかった。早速、3ヶ月間乗り放題のチケットを購入した。 旅のルートを計画した。ロサンゼルスから出発し、メキシコ、フロリダと南下して、東海岸のニューヨークへ。そして中心を横切るようにシカゴに向かい、さらに北上、カナダを経由して西海岸に戻ってサンフランシスコ、ラスベガス、そして最終ロサンゼルスという反時計回りの行程。実に33州(おまけにカナダを数時間ほど)も横断することになる。僕は劣悪なバスの環境などスッカリ忘れ、これからはじまる旅に心を震わせた。バスに乗り込むと、客は黒人ばかりでアジア人は僕だけだった。後部座席周辺は危ない雰囲気の若者ばかりで、出発直後からドラッグ(主にマリファナかLSD)を吸いはじめた。煙が目立つから運転手に見つかるかと思われるが、彼らはマリファナを深く吸い込み、煙さえも勿体無いとばかりに肺に染み込ませるため、車内はほとんど無煙だった。気づいている様子の運転者もいたのだが、退屈な表情のまま黙って運転を続けていた。 出発してすぐに珍事件が起きた。後方から10歳ぐらいの...

Vol.18 「僕はアメリカン・ガーデナー(見習い)」

イメージ
 Vol.18 「僕はアメリカン・ガーデナー(見習い)」 夏が終わりに近づいていた。それは旅の終わりでもあった。アメリカ滞在最後の1週間は、瀬良垣さんの仕事を手伝うことにした。彼の職業はガーデナー(庭師)で、その作業現場はどこも広くて、庭と言うよりは公園に近かった。 現場には古いピックアップトラックに乗って移動した。途中で助手のメキシコ人が2人、同乗した。到着した場所は、ビバリーヒルズの豪邸だった。持ち主はアメリカ人なら誰もが知っているセレブたちで、映画に出てくるような豪華絢爛な世界に圧倒された。仕事とはいえこんな美しい場所で作業をするのは楽しかった。ランチタイムに芝生に座って食べていると、美術館の庭園でピクニックをしているようで、贅沢な気分が味わえた。ランチは瀬良垣さんの奥さんが作ってくれた弁当を食べた。中身は決まってブリトー(時々はサンドイッチ)で、それにリンゴが一個ついていた。共に働くメキシコ人はいつもブリトーだった。今では日本のコンビニでも当たり前に売っているメキシコのメジャー料理だが、僕はそこで初めて食べたと記憶している。小麦粉で作ったトルティーヤにいろんな具材を巻いて食べるシンプルな料理に魅了された。具材はビーフやチキンなどの肉類に、旬の野菜を挟むのが多かった。他にも米やインゲン豆、トマト、サルサ、チーズ、サワーソースなど、自分の好みの具材を巻いて食べるのだという。慣れてくると小さな発見をした。メキシコ人の食べるブリトーはいつも豆しか入っていないのである。一見、同じような形をしたブリトーだが、中身は生活レベルによって変わるのだった。メキシコ人は豆だけで腹を満たすと、また黙々と働いた。 ビバリーヒルズの様々な豪邸で仕事をしたため、セレブの生活も垣間見ることが出来た。驚いたのは、セレブたちは家のためなら湯水の如く金を使うことだった。生活補助のために雇う人々の賃金や、邸宅のメンテナンス費用だけでも高額だが、その庭にあるものも豪華だった。プールがあり、ジャグジーがあり、テニスコートがあった。さらにトップクラスの大邸宅になると、それらにプラスしてローズガーデンがつく。まあ、バラでなくてもいいのだが、ガーデンがあれば迷うことなくトップレベルの富裕層だった。ガーデンでは週末ごとにパーティを開くという。半端な維持費ではないのだろう。しかしそれが一流の証となるのだ...

Vol.17 「アメリカ」

イメージ
 Vol.17 「アメリカ」 大学2年の夏にロサンゼルスへ行った。はじめてのアメリカは1ヶ月の滞在予定だった。米国在住の知人である瀬良垣夫妻に連絡すると、いつでも歓迎してくれるという。これで観光と同時に移住者視点で生活情報を得ることが出来る。アメリカ移住を考えていた自分にとっては朗報だった。 成田を出発すると経由先の韓国で十時間も待たされた。それから長い飛行時間を経て、ようやくロサンゼルスに到着した。その間は興奮もあってか、睡眠も上手く取れず(寝ても浅い眠りで)、雲の合間からみえる雄大なアメリカの土地を、ボンヤリと眺めていた。空港に到着すると、瀬良垣さんが笑顔で迎えてくれた。一瞬、英語で話してくるかと身構えたが、終始日本語だった。しばらくして気づいたことだが、彼は英語をほとんど喋らなかった。勿論、日常会話は可能なのだし、ヒアリングも優れているのだが、家では常に日本語で喋り、外出先でも簡単な英単語を使うだけだった。もともと瀬良垣さんが無口だったこともあるのだろうが、僕は滞在中、彼の英語をほとんど聴かなかったと思う。瀬良垣さんは仕事も熱心で、評判も良く(彼は腕利きの庭師だった)、夕食後はテラスに座り、移住の際に持ってきたという三線を弾きながら沖縄方言で歌ってくれた。 観光名所をひと通り観てまわった頃、今度は実際の移住者たちの生活にも触れたくて、瀬良垣さんに日本のコミュニティを紹介してもらった。移住者たちは同じ故郷の者たちでコミュニティを作る。それはとても密な関係で、異国の地で何か起きた場合は、互いに助け合うのだろうし、国の文化を継承し、他国の者たちへ広げていくのも目的なのだろう。日本の移住者たちは、コミュニティへ戻るとみんな日本語を話していたし、日本の雑誌を読んだり、録画した日本のテレビを観たり、懐かしい歌謡曲を歌っていた。特に日本から送られてきた古い雑誌は貴重らしく、みんなで読み回し、暗記するほど何度も読んでいるという。夢を求めてアメリカに渡り、幾歳月も暮らしていながらも、遠い海の向こうにある故郷に思いを馳せる。ずっと前に発売された古い日本雑誌を、今も楽しそうに読む移住者たちを見て、僕は何だか切ない気持ちにもなったりした。 驚いたことに、移住者たちの中には就労ビザを持たずに働いている者もいた。その頃は不法入国に規制もゆるかったし、職種を選ばなければ、いつでも仕...

Vol.16 「怠惰な学生、勤勉な生活」

イメージ
 Vol.16 「怠惰な学生、勤勉な生活」 「大学生の本業は学問である。一定の理論に基づいて体系化された知識と方法を身につけるのが、本来の目的である」桜が満開になる頃によく聴くそんなスピーチを、うっかり寝てしまって聴き忘れたのだろう。僕は学生本来の目的から遠く離れ、バイトに明け暮れていた。 バイト先は某一流ホテルの配膳係だった。時給がいいので毎年何百名と応募があり、その中から選ばれるのも大変だったが、仕事も大変だった。一流のサービスを提供するという立場が、バイト生の多くをストレスで苦しめていた。辞める者も多かったが、僕は技術力を向上させて時給をあげていった。絵に描いたような厳しい競争社会を僕はゲームのように楽しんでいた。気づけば550円だった時給も、いつの間にか最高となる1400円にアップしていた。 仕事に慣れてくるとホテル全体が居心地の良い場所に変わった。社員食堂も安くて品揃えも充実しており、時には朝も昼も晩もそこで食べていた。シャワーも仮眠室も完備しているのでアパートに戻る必要も最低限だった。職場にいれば金も貯まる一方だから、可能な限り勤務時間を入れて貰い、社員並みに働いた。日々夢中で働いていると「マイクは勤勉だな」と社員に認められた。勤勉と言われるとそうかも知れないが、実は単純に楽しかっただけである。 楽しい仕事にも面倒なことはあった。例えば厨房係だ。僕たち配膳係は、厨房係とは密な関係であるため、連絡事項や確認事項が多かった。面倒なのはやりとり自体と言うより精神的な面である。厨房は配膳以上に戦場のような場所で、働く者は皆、そんな現場で生き残った人々であり、気が強くて荒っぽい者が多かった。喧嘩も日常茶飯事で、時には先輩コックが部下をナイフで刺すという事件もあったほどだ。コックたちの機嫌を損なえば、あからさまに嫌がらせを受けた。声をかけても無視されるのは序の口で、仕事の邪魔をされることもあった。だから機嫌よく働いてもらうために丁寧に接していなければならなかった。逆を言えば、厨房係と仲良くなるとさらに快適なバイト生活を送ることになる。 「おうマイク、これ食ってみろよ」「おうマイク、これは今が旬だぜ。一口食べてみろ」「マイク、こっち来いよ。なかなか手に入らないシロモノだぞ」「(小声で)これ内緒だぞ、チーフに知れたら俺のクビが飛ぶ」僕はいつの間にか厨房係たちとも...

Vol.15 「新しい風の中で」

イメージ
 Vol.15 「新しい風の中で」 東京で大学生活をはじめたのは1975年の春だった。 社会の変革を求めた若者たちによる政治運動は尚も続いていた が、暴力による革命の虚しさが同世代に暗い影を落とし、学生運 動は徐々に下火となった。故郷では、日本復帰記念事業としての 国際海洋博覧会が夏にあり、総合的な経済開発で社会基盤が一挙 に整備され、観光立県としても島全体が湧いた時期だった。 さて、僕の大学生活である。本来ならキャンパスライフを満喫 しながら勉学にも勤しみ、将来のために就職先を選ぶのだけれど、 そもそも僕の計画に「大学生活」自体が入っていなかった。 僕の最終目的は「アメリカに移住すること」であり、よって大 学生活は「出発準備期間」でしかなかった。まずは在学中に少な くとも一度はアメリカに渡り、その土地の生活を知ることが最初 の目標だった。となるとお金が必要になる。実際、僕は大学の4 年間をほとんどバイトに費やした。 当時のことで記憶は定かではないが、東京からロサンゼルスま で安い便なら往復10万円だった。現地には1ヶ月近く滞在した かったので旅には合計30万ぐらいは必要だろう。マクドナルド の時給が350円の時代である(あくまでも僕の記憶。現在1000 円ほど)。 僕は手っ取り早く金を稼ごうと1日6000円のギャラに惹かれ て建設工事現場で働いた。さすが高額だけあって仕事は過酷で、 朝から晩まで肉体を酷使すると後は帰って寝るだけだった。 仕事に慣れても、余った時間に英会話の勉強をやる気力はなく、 いつも音楽を聴きながら本や雑誌を読んで寝るだけだった。まあ、 目的はお金なのだから文句はないが、単純作業の日々は二十歳の 若者にはひどく退屈だった。 だから同い年で気の合う仕事仲間が入ってきた時は嬉しかった。 しかしその男は少々風変わりで仕事中でも時間があれば「宗教と は何か?」「仏とは何か?」「悟りとは?」などと難しい質問を 矢継ぎ早に浴びせかけてきた。それで僕が一言ぐらい返答すれば、 後は彼が延々と話し続けるのだった。 最初は呆れ顔で彼の話を聞いていたが、次第に話も面白く感じ るようになり興味深く聞いていた。肉体だけでなく頭までフル回 転させるバイトは有意義だったが、彼は悟りをひらくために(実 際は肉体労働に飽きて)仕事を辞めてしまった。 僕自身も単調な毎日に...

Vol.14 「幸福な時代の沖縄の青年」

イメージ
 Vol.14 「幸福な時代の沖縄の青年」 ハイサイ、マイクおじさんです。 今の僕には遠い昔のことだけど、高校時代はホントに良い時代だ ったと思っている。その中でも「自由」を体感したことは大きい。 それまでが偏屈な生活をだらだらと送っていたのだから当然だった かも知れない。もちろん、自由には個人差もあるし、社会的基盤か ら鑑みて判断されるのだろうから一概には言えないけれど。それで もあの頃の僕は本当に自由だったと思っている。 前にも書いたけど通学ルートに国際通りがあって、僕はそこでい ろんな経験をさせてもらった。大人の世界への憧れが強い年頃で、 煙草を吸いながら遊技場に出入りしていた。 ビリヤード場は薄暗い間接照明と煙草の煙が充満しており怪しい 魅力があった。ゲームは金を賭ける「賭け玉」が当たり前で、それ に熱中するあまり借金を背負って学校を辞める学生もいた。 街の誘惑に溺れていった生徒もいたが、僕はそれらに熱中する訳 でも拒否する訳でもなく、ただクールに受け入れていた。 煙草はウィストンやケントなど洋モクが人気で、金のない僕らは 小銭を出し合って購入しては、喫茶店で吹かしていた。珈琲を飲み ながら煙草を吸うと、何だか大人になれた気がしたのだ。実際、味 はどうでも良かった。僕が珈琲の美味しさを知るのはまだ先の話だ。 誰かが家にある酒を盗んでは、みんなでまわし飲みをした。洋酒 は高級品だから、よく手に入るのは泡盛だった。今と違って臭いが 強烈で、そのままでは飲めずにベストソーダを混ぜていた。ちなみ にベストソーダとは 5セントで買える色とりどりの安物ジュースで、 飲むとかき氷のシロップのように舌がジュース色に染まった。その 頃は「健康」に気を使う人もまだ少なく、僕たちは当たり前のよう に合成着色料満載飲料水を嬉々として飲んだ。 ロックを聴きに初めてコザへ行ったのも高校時代だった。友人の ひとりが兄の車を借りて(聞くと無断借用だった)、みんなぎゅう ぎゅう詰めになってドライブした(聞くと無免許運転だった)。 コザはロックが主流でどのライブハウスも人で埋め尽くされ賑わ っていた。生で聴くロックに圧倒されっぱなしだった。会場の盛り 上がりは異常で、エネルギーに満ち溢れていた。僕らは大音量の激 しい曲を聴きながらビールを飲み、大声で声援を送り、野次を飛ば し、その空間...

Vol.13 「ひとり時間」

イメージ
 Vol.13 「ひとり時間」 高校時代の思い出のひとつに「修学旅行」がある。その手のよく ある思い出話とはちょっと違った、風変わりで、とても個人的なも のだ。何故なら僕は修学旅行には参加していないのである。 行き先は「東京周辺で、はとバスが走るような観光地がメイン」 という地方学生にはお決まりのコースだった。 僕は少し考えてから、両親に「修学旅行は辞退する」と言った。 当然、親は困惑した。「その代わり、キャンセルしたお金で旅をさ せて欲しい」と付け加えた。両親はさらに困惑して「みんなと行か ないで誰と行くの?」と聞いてきた。「いや、ひとりで行くんだよ」 そう僕は言って、ますます困惑する両親を後に、さっさと部屋に戻 った。 クラスメイトのほとんどが修学旅行を楽しみにしていたし、僕の 友人たちもそうだった。けれど僕にそんな気持ちは全くなかった。 勿論、友人たちや彼女との思い出作りも大切だけれど、それ以上に ひとりで知らない土地を旅してみたかったのである。 「なあマイク、ひとり旅なんて面倒だし寂しいだけだぞ。楽しい ことがあっても話し相手さえいない。みんなと行く方が何倍も面白 いに決まっている」そう忠告してくれる仲間もいた。その時は笑っ てごまかしていたが、実際、どうしてそうするのかを上手く説明出 来なかった。 沖縄県民が本土へ行くにはパスポートが必要で、アメリカ合衆国 の出先機関・琉球列島米国民政府に申請して発給された。それを受 取ると、僕は鹿児島行きのフェリーにひとりで乗った。 船には不慣れなため那覇港を出航し数時間後には嘔吐した。目的 地まで2泊3日もかかると思うとゲンナリしたが、甲板から水平線 を眺めているとその先の世界を想像して旅行気分になれた。途中、 何度か大きな揺れがあり、気分は良くなっては悪くなりの繰り返し で、3度目の嘔吐を終えた頃に船はようやく西鹿児島に着いた。 船場から最寄りの駅へ向かい大阪行きの切符と駅弁を購入した。 そこで初めて「円」を使った。ずっとドルを使ってきたから新鮮だ ったし、沖縄とは価値観が違うと念を押された気分だった。 プラットフォームに立っていると、大きな鉄の塊が煙を吐きなが ら入ってきた。間近で見る蒸気機関車は実物よりも大きく感じた (当時は電車ではなく汽車の旅である)。 旅の目的は「大阪万博」だった。 夜行列車で新たな...

Vol.12 「音楽、その憧憬の果て」

イメージ
 Vol.12 「音楽、その憧憬の果て」 音楽には散々苦しんできたから、高校で音楽クラブに所属しよう とは思わなかった。それでも放課後になると友人たちの家へ行き、 互いのレコードを聴いては感想を話し合い、友人宅のギターを弾い ては楽しんでいた。 その頃の流行歌は、社会性をテーマにした魂の叫びのような曲か ら耳心地の良い軽やかな曲の方へ移り変わった。ひとり静かに聴く 時代からみんなで楽しく歌う時代になったのだろう。それは僕の抱 えていた音楽への精神的束縛からの解放と合致し、音楽の趣味もよ り楽しく、より自由な方へと向かっていった。 2年の時に文化祭があり、クラスで「何をするか?」を話し合っ た。協議した結果、当時流行りの「歌声喫茶」を企画したのだった。 歌声喫茶とは、ギターやピアノなどの生演奏があり、お客さんと一 緒に歌うことの出来る喫茶店のことで、50年代に登場してブーム となったが70年代からはカラオケが主流となり廃れていった。新 宿では学生たちが歌声喫茶に集まり、ともに語らい、ともに歌って いた。その頃はもう下火になっていたが、都会の若者たちに影響さ れての企画だった。 学園祭で一番驚いたのは、先生がすべてを生徒に一任させたこと だった。生徒の自主性を尊重する祭りなのだろう。僕らは演奏の曲 目からタイムスケジュール、バンド構成、楽器の調達、ステージや 客席など教室のレイアウト、飲食メニュー、店内の美術や照明器具 などすべて自分たちで決めて準備をした。 演奏チームは知人から楽器を借りて演奏リストを作って練習をは じめた。僕は音楽経験者なのでウッドベースを担当しステージに立 つことになった。 クラスの誰もが意見を交わして音楽構成を作り上げた。ボーカル の歌い方や盛り上げ方もみんなで考えた。そんな細かい演出までみ んなで手がけるのが僕には新鮮だった。当然、意見が違うことも出 てきて度々口論となった。みんなで決めるのは大変だったけど、あ らかじめ決まった道に沿って歩くより新しい道を自分たちで作るこ との難しさと面白さの方が断然に楽しかった。 学園祭を成功させるため自由にアイディアを出すこと。計画を行 動に移し成功に導くこと。そのための責任は自分たち自身にあるこ と。そんなひとつひとつが僕は本当に嬉しかったのである。 「歌声喫茶」が成功したかどうかは僕にとってあま...

Vol.11 「風薫る時代」

イメージ
 Vol.11 「風薫る時代」 自宅から高校までの通学ルートに国際通りがあった。まだ復帰前 だから観光客が賑わう場ではなく、最新の流行発信地として県民に 機能していた。雑誌やテレビの情報がダイレクトに反映されていた し、街行く人々を眺めるだけでも刺激があった。僕もここで遊びを 学び、大人の社会を知るようになった。それは坊主頭に少し毛が生 えた程度の変化かも知れないが、僕にとっては強い影響だった。 その頃はベトナム戦争が激化しており、アメリカは次第に内から 病んでいき、世界は少しずつ暗い影を落としていた。皮肉にも戦争 そのものが沖縄の景気を盛り上げてくれた一面と、米軍兵の事件が 多発して県民の怒りが激しくなる一面の表裏を持ち合わせていた。 僕が高校に入る前年(1969 年)、佐藤・ジョンソン会談で沖縄返還 合意の共同声明が発表され、この島は世界の暗さを吹き飛ばすだけ のエネルギーで充満していた。県民誰もが複雑な感情を抱えながら も明るい未来を掴もうと必死だったのである。 そんな時期に僕は新しい友人たちと新しい生活を楽しんでいた。 ある日、男だけ4、5人が集まり本島北部へキャンプを企てた。 テントを担ぎ(雨で濡れるとクソ重くなる米軍払い下げのテントだ った)、バスを乗り換え那覇から本島最北端の岬へと向かった。車 窓から「やんばる」の景色を眺めていると心が落ち着くのが分か る。それは少年の頃から感じていたものだった。 目的地に到着するとまっさきに岬の先端に立ち、前方の小さな島 を見つめた。それは鹿児島県の与論島。日本だった。 「こんな近くに日本が見えるけど、パスポートが必要なんだな」 「よし、俺は高校を卒業したら本土へ行くぞ」「俺も」「俺も」。 不意に誰かが「沖縄を還せ~」と大声で歌った。当時流行っていた 反戦歌だった。すぐにみんなも加わり歌った。僕たちの声は波で消 されて何処にも届かなかったけれど、僕らの中で何か熱いものが生 まれたのは確かだった。それはおぼろげで決して明確なものではな かったけれど。 沖縄世、中国世、アメリカ世、ヤマト世...。僕らは状況に従って 何処かに属され、しかし何処にも属されていないような宙ぶらりん の沖縄の青年だった。 テントを張り終わると夕飯の準備をした。キャンプのメニューは 必ずカレーで、中身は肉など入っておらず安いソーセージと恐...

Vol.10 「雨の日もある」

イメージ
Vol.10 「雨の日もある」  ハイサイ、マイクおじさんです。 今日も緑深いやんばる地方で自分の夢を実現させようと、せっせ と山に行っては汗をかいています。疲れた時や気分転換には珈琲を 飲みながら音楽を聴く。古いジャズやハワイアンも好きだけど、最 近は自然の音に耳を傾けているよ。山で聴く音は日々変化し、鳥や 虫たちの音色も違うし、木々や草花の揺らぎも風によって違う。優 しい時もあれば厳しい時もある。ああ、今日は心地よい風の音を聴 きながらこのエッセイを書いているよ。 前回話したように中学時代は「音楽」が「音苦」となってしまっ たけれど、部活動を続けたことでタフな人間になった気がするよ。 今では困難なことも楽しさに変える術も身についている。ほんと、 人はどんな状況でも成長する可能性があるんだなって思うよ。どん なに辛い時でも前に進んでいれば必ず光が見えてくる。ほんの小さ な一歩であっても続けていけば光を見つかる。 もしも今落ち込んでいる人がいるなら、あまり深刻にならないで、 少し距離を置いた状態で自分を見つめながら、目の前のやるべきこ とに集中すればいいと思う。明けない夜がないように苦しさの向こ うには喜びが待っているはずだし、第一、そう信じている方が気持 ちも楽になれる。そうそう、辛い中学時代にもね、ちょっとした不 思議なエピソードがあるんだ。今回はその話をしようね。 毎年夏休みには絵を描く課題があって随分と困った。何故なら僕 は絵が本当にヘタクソで(今でもヘタクソだ)、描くこと自体が嫌 いだった。それに夏休みも毎日部活動があってヘトヘトだから課題 は2学期前日にギリギリやるのが普通だった。 やる気はないから絵も適当に殴り書きのように一気に描いた。い つもならそれで終わりだけど、あの時は何故か書き上げた絵をしば らく眺めていたんだよ。そしてフと思いついて絵を消すように白色 の絵の具を分厚い油絵のように塗りたくった。画用紙一面を白色で 埋めたあと、フォークを持ってきて今度は白色を部分的に削ってい った。削ったところから描いた絵が見えてきた。何だか立体的な感 じがしたよ。まあ、ただの思いつきだ。ちょっとやり過ぎだと思っ たけど書き直しもせず翌日提出をした。 しばらくして僕の絵は沖縄タイムス主催の全沖縄絵画大会で最優 秀賞を受賞してしまった。それは新聞にも取り上...

Vol. 9「挫折の季節」

イメージ
 Vol. 9「挫折の季節」 僕たちの吹奏楽部は県大会準優勝で幕を閉じた。九州大会出場が 当たり前だったから惨敗のようなもので、敗退の悔しさに加え部長 としての責任も重くのしかかった。発表後に控え室で音楽指導の先 生に怒鳴られるのを覚悟したが、先生は負けたことに関しては一言 も口にしなかった。先生のその優しさもあの時の僕には無言の重圧 にしか感じられず、部長として何かを言う訳でもなく俯いたままだ った。そして誰もが無言のまま会場をあとにした。沈黙が僕に終わ りを告げたのである。 大会後は部活動の無い穏やかでのんびりとした生活になったが、 日々、大事な何かをずっと忘れているような虚しさと苛立たしさに とらわれた。自分には部活しかなかったから、それ以外に何をして いいのか分からない。だからクラスメイトが楽しそうに下校する姿 をぼんやりと教室の窓から眺めていたことも幾度もあった。 敗北感が消えることはなかった。それどころか日増しに膨れ上が り、心を蝕み、何時でも何処でも僕にまとわりついてきた。照りつ ける日差しも次第に衰えて夏も過ぎていったが、寝苦しい日々はず っと続いた。 しばらくして僕は吹奏楽部にまた顔を出していた。後輩たちに音 楽を教えていたのである。部員たちと接することで自分の役割がま だあると感じていたかったのかも知れない。そして少しでもいいか ら音楽とつながっていたかったのだろう。 あの頃を振り返ってみると、僕の人生の中でも辛く暗い時代では あったけれど、決して悪いことばかりではなかったように思う。思 いつくままに良かったことを 3 つほどあげてみる。 ひとつ目は部活動の過酷な練習によって、チームワークの素晴ら しさを教えてくれたこと。部員たちは共に励まし合い切磋琢磨しな がら上達した。小さな喧嘩はあったけれど互いを認め合っていた。 そんな気持ちの者たちが最後まで残り、チームはより深く完成され ていった。 ふたつ目は調律を任されたこと。調律とは楽器の音を演奏前に調 整することで重要な役割だった。少しの訓練だけではなかなか出来 ない役目だろう。僕はたまたま耳が良く、普段から先生が調律する のを何気に観察しており、自然と先生の選ぶ音を理解するようにな っていた。楽器の音は、ホールの大小、温度や湿気によって随分と 違ってくる。調律が上手くいかないと演奏全体が...

Vol. 8「風のない世界で」

イメージ
Vol. 8 「風のない世界で」 音楽は人間が創造した芸術だけど影響を与えるのは何も人間ばか りではないそうだ。 植物は音波が葉を揺らし振動が土を伝わり全身で音を感じている。 音楽を聞かせたブドウは、音楽を流さずに育て られたブドウよりも成熟は早く、 味、色、ポリフェノールの含有量 の点で優れたという。 牛も音楽を聴かせるとストレスが軽減され、 ミルクの産出量が増えたり、肉が美味しくなったという実験結果が ある。 まあ、真偽は定かではないけど地上のあらゆる生物は音楽に 影響されていると思っている。 だから人間であれば尚更だろうし、 僕にとっても尚更だった。 音楽に熱中していたその時代にビートルズは来日公演を果たした。 ある者は彼らの歌に熱狂し、そのマッシュルームヘアーとタイトな スーツを「自由の象徴」として歓迎した。 しかし ある者は 来日反対運動を起こし脅迫文まで送った。 彼らが空港からヒルトンホテルへ 向かう高速道路を封鎖し、慶長は厳戒態勢を敷いた。 良くも悪くも 音楽が世界を動かした瞬間だった。 僕も彼らと負けまいと音楽をやっていたが立場は全く違っていた。 当時は「男子が楽器を持つことは軟派でひ弱である」 と 勘違いする生徒が大勢いたし、 影で僕たちを 「シスターボーイ」 と呼ぶ者もいた。 しかし実際の吹奏楽部は軟派とは ほど遠く、地獄のように厳しい練習が 年間 360 日 も 続 き 、 退部する者も少なくな く 、 忍耐力 と 強い意思 がなければとうてい務まらなかった。 厳しいだけならまだ良かった。 問題は僕が 1 ミリたりとも音楽を 楽しめていないことだ。 自分の求める音を殺し、部活指導の先生の 求める音のみを追求した。僕にとっては音楽の牢獄だった。 だから 少しでも抜け出すため、先生が音楽室にやって来る前のわずかな時間、 楽譜の上に隠すようにビートルズの楽譜をはさんで脳内で演奏 していた。 先生に見つかると殴られるので隠れキリシタンのような気分だった。 先生は流行りの曲はいつも小馬鹿にしていた。 自分の音楽こそが 本当の音楽であると自信もあったのだろう。 ...

Vol.7 「音楽の時代」

イメージ
Vol.7 「音楽の時代」 胎児は母の鼓動を無意識下で感 じ と り 、自身の心音を原点として誕生し、 様々な音を聴きながら生きることになる。 音は人と密接な関係を結び、 心にも体にも多くの影響を与え る 。 地球は音で溢れている。 ならば音楽を楽しむことは誰もが持っている資質なのだろう 。 僕は小学校高学年ぐらいで音楽に魅了された。 テレビやラジオか らヒット曲を知り、 やがて海外の曲も聴くようになった 。 1964 年 は僕が最も好きなビートルズが日本でレコードデビューを果たした年だが、 まだ誰もが聴いている訳ではなく、日本が彼らに熱狂するにはもう少し時間がかかった。 僕は フォークソングから懐メロ、 オ ールディーズ 、 ジャズ 、 流行りの歌謡曲まで 耳に入るものなら何でも聴いていた 。 僕にとって音楽は世界を知るための入口だった 。 ある日、 友人が学校に トランペットを持ってきた。 進学すれば吹奏楽部に入るらしい。 金メッキ に仕上がった ピカピカ の楽器は間近で眺めると本当に美しかった。 友人は練習をは じめたばかりでお世辞にも上手いとは言えなかったが 、 演奏する姿は 「 輝かしい 未 来 」 の 象徴のように見えた 。 だから僕は帰宅すると 「中学生にな ったら 吹奏楽部に入るからね ! 」   と父と母に宣言した。 「那覇中は音楽の名門だろ。 部員の多くが幼い頃から楽器を演奏 しているらしいぞ 。 言わば エリートたちの集まりだ。 楽器もないお前にはちょっと無理だな ぁ 」 父は屈託のない笑顔を浮かべながら軽いつもりで言った と思うが、僕は傷ついた。 「 ウチに は楽器を買う金なんかないぞ 」そんな父の言葉に僕は益々 ムキになった。 「楽器なんか持ってなくても関係ない 。 音楽室にあるヤツで十分。 誰よりも練習して誰よりも上手くなって誰よりも早く プロのミュー ジシャンになるんだ ! 」 ああ、 僕は勢いだけで人生の目標まで決めてしまった 。 中学生になると 当然のように吹奏楽部に入部した。 部員は1年生だけでも 70 人以上はいた 。 中には3歳の頃から音楽を始めた者や自分の楽器を持っている者もいて、 音楽...

Vol.6 「糸満0番地・港町大衆食堂」

イメージ
Vol.6 「糸満0番地・港町大衆食堂」 港町の朝は早い。 僕とオバアは まだ夜の香りが残る朝4時には 食堂へ行って準備をはじめた。 店員たちと掃除を終えると、オバアたちはスープを作ったり 具材を細く切ったりと支度をはじめる。 その間、僕はテーブル上の割り箸や調味料を足したり、 大きなヤカンに入ったアイスティーを運んだ。 厨房にスープのにおいが漂いはじめると、朝一番のお客さんたちがやってくる。 港町では夜明け前から働く人が多く、店は早朝から賑わっていた。 「いらっしゃい!」 僕は声を出してお客さんを迎えた 。 元々、人を観察するのが好きだったので店員さんの動きはすぐに把握した 。 厨房が忙しくなれば麺の上に具材をトッピングしたり、スープを注いだ。 麺の湯切りもやった 。 意外とコツがあることに気づき、慣れるまで少し時間がかかった。 基本、スープはオバアが作るのだが、僕も味見をして神妙な面持ちでコクリとうなずいた。 はたから見ればつまみ食いの ガキんちょ だが、本人としては 一流のシェフのように振舞っていた。 店内が忙しくなれば食器を洗ったりテーブルを拭いたり、時にはレジも担当した。 子どもだからだろう、お客さんはみんな僕に優しかった。 ヤクザ風の怖いニーセーターさえも笑顔で話しかけてくれた。 お金をいただき、「ありがとうございました」と声を出すと、一人前になった気がした。 そして何と言っても嬉しいのは、 自分が作った(手伝った)ソバを お客さんが喜んで食べくれることだ。 みんなが美味しそうな顔をしていると僕も笑顔になった。 振り返ると オバアの店を手伝って手間賃を貰った記憶はない。 勿論 、小遣いとして頂戴はしたと思う。 でもそれが記憶にない。 きっと手伝うこと自体に手間賃以上の価値を見つけたのだろう。 オバアには本当に良い経験をさせて貰ったと感謝している。 僕は仕事でお金を得る喜びの前に、 お客さんが満足することに純粋な喜びを感じることが出来たのだ。 それは少年時代の何物にも代え難い経験であり、歳を取るほどに実感していることだ 。 糸満0番地の大衆食堂は、味自慢とオバアの人柄で随分と繁盛し...

Vol.5 「はじめての労働」

イメージ
マイクおじさんの風の吹く場所へ   Vol.5 「はじめての労働」  少年の頃、毎年夏になると決まって  糸満にある祖父母の家に一週間ほど寝泊まりしていた。   1960年代、糸満は大層賑わっていた。   漁師町特有の荒っぽい猥雑さがあり 那覇とは異なる活気があった。   漁師の数も今よりはるかに多く、 魚市場は人で溢れて、  当時あったクジラ工場には地元民だけでなく、  本土からも技術者が多く集まっており、  町には飲み屋がずらりと並び、 まだ映画館もあった。   僕が糸満へ行くのには目的があった。   それはオバアが営む食堂があるからだった。   場所は糸満0番地。   名は平和食堂。   人気メニューは 沖縄そば、味噌汁、チャンプルーなど オキナワンスンダード。  客は威勢のいい  ウ ミ ン チ ュ ( 漁 師 ) や   魚 市 場 で 働 く ア ン マ ー ( 母 )、   頭 の 上 に 魚 な ど 商 品 を の せ て 売 り 歩 く カ ミ ア チ ネ ー ( 女 性 の 行 商 )、   そ し て 町 の ア シ バ ー ( 遊 び 人 )、  ニ ー セ ー タ ー ( 若 者 た ち ) だ 。   ちなみに0番地とは、  戦後のドサクサにまぎれて個人が無断で埋め立てた「無願埋立」のこと。  当時の糸満ンチュたちは、 野山を切り開いて家を建てるように 海を切り開いたという。  0番地は気概のある糸満ンチュたちの フロンティア・スピリッツを示した場所だった。  平和食堂はオバアと近所のアンマー2、3人が切り盛りしており、  店内はエネルギッシュな糸満ンチュの熱気で包まれていた。   僕はその雰囲気が気に入り、  朝から晩まで料理を作るオバアた...

Vol. 4「少年時代」

イメージ
Vol. 4「少年時代」 優しく吹いてくる心地よい風。 やんばるの小さな島にアロハホテルを開業したのは、 丘の上に吹くあの風のせいかも知れない。 風。 それは言葉通りの意味であり、 楽園や理想郷といった比喩で あり、 幸せの代名詞でもある。 振り返れば、 僕はいつもあの風を求めて旅をしていたように思う。 さて、アロハホテルのことはいずれ話すとして、 僕が最初にあの風を感じた少年時代から 物語を進めていきましょうねー。 僕は那覇で生まれてその街で育った。 戦後はだいぶ混乱していたものの、 人々の混沌としたパワーが一気に経済に進み、 日本全体が活気で溢れ、 ご多分にもれず那覇の街も賑わっていた。  1973 年まで続く高度経済成長期に十代を過ごした。 父は叩き上げの職人で、 独学で仕事を学び苦労しながら設備屋になったらしい。 昼間は建築現場でおおいに働き、 夜は桜坂でおおいに飲んだ。 母は「サザエさん」に登場する フネのような古風な女性で、 気品があり清楚でありそして寡黙だった。 そんな母は亭主関白だった父を 文句も言わずによく支えていた。 僕たちの家族は決して裕福ではなかったけれど、 みんな豊かで真っ直ぐと生きていた。 それがあの時代の一般的な家庭だったように思う。 ある日、父が家族でドライブに連れて行ってくれた。 初めての遠出は本島北部・羽地にある源河川だった。 街で育った僕はやんばる(山原)に行くのが新鮮だった。 車で街を離れると次第に交通量も減り、 視界が広がるのを感じて いた。 色彩もゆっくりと変化して緑がより深く濃くなっていった。 僕は移りゆく風景を車窓からぼんやりと眺めているのも好きだった。  やんばるに着くと源河川でバーベキューをした。 今となってはど んな物を食べ、 どんな遊びをし、 どんな話をしたのかはすっかり忘れてしまったけれど、 あの時に感じた森に吹く風は今も憶えている。 家族みんなで川辺に腰掛けて両足を冷たい水に突っ込んで、 ゆる やかに流れる川を眺めた。 しばらくして森の木々がざわめくと涼しい風が吹いてきた。 やがて僕は目を閉じて風だけを感じた...。 あの何とも言えない感覚。  僕のすべてが満たされて心地良かった。  それが幼い頃の幸せな記憶のひとつとなった。  あれから随分と時は経ったが、 ...

Vol. 3「風の吹く場所で」

イメージ
Vol. 3「風の吹く場所で」 坂道を登ると丘の上に古びた一軒家がポツンと建っていた。 そこは釣り人がよく利用する民宿で、 地元のオバアが営んでいるという。 宿の周囲は木々が雑然と生い茂り、 雑草も伸ばし放題で荒れており、 キチンと管理しているとは到底思えなかった。  玄関のドアを叩くと気さくなオバアが出てきた。 ここにやって来た経緯を説明すると、 すぐに理解して見学させてくれた。 何でも一 緒に経営していた夫に先立たれ、 自分も老いてきたので土地を手放したいのだと言う。 管理も十分には出来ないのだろう。 宿の先に細長い階段があって海へと続いていた。 ビーチまで降てみると小さな桟橋を見つけた。 僕はその先まで歩いていき、 眼前に広がる羽地内海の景色をしばらく見つめた。  穏やかな海にのんびりと浮かぶ小さな島々。 かすかな波音。 海上を爽やかに渡る風。 停泊中の船も実にのんびりしている。 僕は今来た階段を戻ると、 丘に立ってもう一度海を見つめた。 その時、不意に風が吹いた。 風は僕の忘れかけた記憶を一気に呼び覚ました。 自分の人生で一番幸せだと感じた日々。 そのハワイの風。  あの時と同じ風だった。 僕は居ても立っても居られず、すぐにオバアに伝えた。 「僕、ここ買いますね!」 「はあ? アンタ何考えているの!?」  オバアは心底驚いて云った。 「ここが気に入りました」  「気に入ってくれるのは嬉しいけど、よく考えてみたら?」  「大丈夫です!」 いや、何が大丈夫か僕も分からないけど...。 それから丁寧に説明をはじめた。 ずっと前から理想の場所を探し 求めていたことを。 この丘に吹く風の素晴らしさを。 オバアは何とか理解していた様でもあったが、 実際は半信半疑だ ったろう。 なんせ僕はこの古いおんぼろ宿を、 バリにある高級リゾ ートホテルの如く語っていたのだから。 オバアと別れて帰路につくと、 僕はずっと風について考えていた。 僕が探していたのは土地ではなく、風だった。 あの丘の上で吹いた うりずんの風が、 僕の好きだった頃のハワイの風のように感じたの だ。 僕は自分が何を求めて生きてきたのかハッキリと理解していた。  「あの風の吹く場所にホテルを建てよう」 そう決心した。 ここを僕がハッピーになったハワイのよ...

Vol. 2「うりずんの季節に」

イメージ
Vol. 2「うりずんの季節に」 山奥にある細く険しい坂道で僕は車を走らせていた。 やんばるの森は濃く深く、道の両脇には亜熱帯特有の木々が 鬱蒼と生い茂って いる。 道なき道を走り、車はガタガタと激しく揺れ、 車底にやたらと石がぶつかりゴリゴリと音をたてる。 知人から山を購入しないか と提案され、 とりあえず見るだけ見てみようと向かったが、 ここま で酷い山道とは思わなかった。 目的地まで本当に行けるかと次第に心配になってきたが、 その反面、この状況を楽しんでいる自分がいた。 山頂へ到着して周囲を確 認する前には、 僕はこの山を買うだろうと考えていた。 心が踊っていたのである。 この感覚は十年ほど前も味わったことがある。 2009 年、僕は那覇で働いていた。 独立して始めた事業が成功し、ようやく波に乗ってきた時期だったが、 心のどこかで平穏とは少し違う感覚も味わっていた。 街での多忙な生活もそれなりに楽しかっ たけれど、 言葉に出来ない違和感もあったのだと思う。 それが理由なのかは分からないけれど、 暇を見つけてはやんばるへ ドライブするようになっていた。 実際、街の喧騒から離れ、 やんばるの雄大な自然を眺めているだけで心が落ち着いた。 次第に毎週のように頻繁に出かけるようにな り、 そこに理想の場所があるような気がして不動産業の友人にも相 談していた。 うりずんの頃。 僕はいつもの様に北上し、あてもなく車を走らせた。 名護の町を越えると国道からそれて、羽地から橋を渡り、 奥武島という墓しかない死者の島を通り、 ふたたび橋に差し掛かると小さな島がみえた。 何度も足を運んだ北部だったが、 この島に入ったのは初めてだった。 屋我地島である。 どこまでも続くサトウキビ畑の一本道をだらだらと走っていると、 白い道の果てに真っ青な水平線が見えてきた。 沖縄の原風景を垣間見たようで、随分と懐かしい気持ちになれた。 この小さな島に惹かれはじめていると、 突然、不動産業の友人か ら電話が入った。  「マイクさん、ちょっと面白い土地を見つけましたよ」  「へえ、場所は何処なの?」 「屋我地島」    鳥肌が立った。 「詳しく話したいんで、あとで会えます?」  「いや、今、屋我地島」 「え...」 一瞬、間を置いて友人と笑った。...

Vol. 1「はじまりのはじめに」

イメージ
ハイサイ、マイクおじさんです。生粋のウチナーンチュ(沖縄の人)ですが、僕をマイクと呼ぶ友 人が多いので、 自分でもそう名乗っています。 どんなヤツかと言う と、何と『やんばる共和国』の大統領です。 と言っても偉いわけで も有名なわけでもなく、ただ楽しいことが好きな普通のおじさんです。 僕は人生をより良く生きるために沖縄本島北部、いわゆる『やん ばる』に住んでおり、とある山の頂を購入して自分のオアシスを作 っています。 そのオアシスこそが『やんばる共和国』です。 まあ、 僕が勝手に名前をつけて勝手に建国する予定ですけど。周囲には 「なんか変なことをしている人だなー」と思っている方も多いと思 います。 元々は那覇で商売をはじめ、飲食店を中心に 13 店舗を展開し、 ビジネスマンとしてはそれなりに成功していました。でもね、その どれもが本当にやりたい事ではない気がしたんですよね。だからそこから飛び出しました。 当然、反対する人もいましたが、 でも自分の人生は自分のもの、好きなように生きるのが僕のライフ スタイルだと分かったんだですよ。他人を気にして生きるのも息苦 しいし、そんな事に慣れてしまうのも勿体ないよね。安定だけを考 えて同じ場所にとどまるのも窮屈だし、失敗を恐れて前に進まない のも後で後悔しそうだしね。 第一、自分に嘘をついてまで安定・安 住・安心の生活にこだわる必要はないと思う。時には放浪者、よそ 者、はみ出し者などと言われても一向に構わない。 自分が楽しいと 思えることをやるのが一番だと思っています。さて、これから僕が大統領になるまでの半生を語ろうと思います。 それが立派な教訓になるとは全く思いませんし、単なる暇つぶし程 度かも知れません。それでもこれを読む人たちに、自分のやりたい 事をはじめる楽しさ、道を切り開いていくことの素晴らしさを知ってもらい、 少しでも元気になればと思っています。 それに『やんばる』も好きになって欲しいんだ。 ここは僕が人生 も半ばを過ぎて、ようやく見つけた大切な場所なんだ。 勿論、幼い頃から知っていた場所なんだけど、何というか、いろ いろな事を経験して、ようやく再発見した場所なんだ。きっとみん なも気に入ってくれると思うよ。そんなわけで、次回から僕の物語をはじめましょうねー。 つづく

マイクおじさんのこと

イメージ
先日、やんばる共和国の山ラボ。 開拓一周年を迎えることができました。 私、まりあの夫であるマイクは 初代 やんばる共和国の大統領 ということになるのですが、最初は、マイク国王! としたのですが共和国に国王は…?! というツッコミをもらったので、マイク大統領 となりました。ですが、案外可愛げのないネーミングなので、マイクおじさんでいいか! と、簡素化されました(笑) 愛すべき マイクおじさん。実はシャイで、人見知り。(出会った頃は人見知りと気づかなかったのだけど)お酒を飲み交わしながらいろんなお話を聞かせてくれます。その話が映画のようで、作り話か?っと思ったりするほど。でも、当時の写真や、周囲の話を聞いていると本当の話のよう。 私だけが知っているのももったいないから ブログでストーリーを紹介することにしました。 次回から少しずつ公開していきますので知っている人も、知らない人も、ぜひお付き合いください! 沖縄、北部、やんばるに住む愛すべき可愛いおじさん。マイクおじさんのお話です。 まりあ