Vol.11 「風薫る時代」 自宅から高校までの通学ルートに国際通りがあった。まだ復帰前 だから観光客が賑わう場ではなく、最新の流行発信地として県民に 機能していた。雑誌やテレビの情報がダイレクトに反映されていた し、街行く人々を眺めるだけでも刺激があった。僕もここで遊びを 学び、大人の社会を知るようになった。それは坊主頭に少し毛が生 えた程度の変化かも知れないが、僕にとっては強い影響だった。 その頃はベトナム戦争が激化しており、アメリカは次第に内から 病んでいき、世界は少しずつ暗い影を落としていた。皮肉にも戦争 そのものが沖縄の景気を盛り上げてくれた一面と、米軍兵の事件が 多発して県民の怒りが激しくなる一面の表裏を持ち合わせていた。 僕が高校に入る前年(1969 年)、佐藤・ジョンソン会談で沖縄返還 合意の共同声明が発表され、この島は世界の暗さを吹き飛ばすだけ のエネルギーで充満していた。県民誰もが複雑な感情を抱えながら も明るい未来を掴もうと必死だったのである。 そんな時期に僕は新しい友人たちと新しい生活を楽しんでいた。 ある日、男だけ4、5人が集まり本島北部へキャンプを企てた。 テントを担ぎ(雨で濡れるとクソ重くなる米軍払い下げのテントだ った)、バスを乗り換え那覇から本島最北端の岬へと向かった。車 窓から「やんばる」の景色を眺めていると心が落ち着くのが分か る。それは少年の頃から感じていたものだった。 目的地に到着するとまっさきに岬の先端に立ち、前方の小さな島 を見つめた。それは鹿児島県の与論島。日本だった。 「こんな近くに日本が見えるけど、パスポートが必要なんだな」 「よし、俺は高校を卒業したら本土へ行くぞ」「俺も」「俺も」。 不意に誰かが「沖縄を還せ~」と大声で歌った。当時流行っていた 反戦歌だった。すぐにみんなも加わり歌った。僕たちの声は波で消 されて何処にも届かなかったけれど、僕らの中で何か熱いものが生 まれたのは確かだった。それはおぼろげで決して明確なものではな かったけれど。 沖縄世、中国世、アメリカ世、ヤマト世...。僕らは状況に従って 何処かに属され、しかし何処にも属されていないような宙ぶらりん の沖縄の青年だった。 テントを張り終わると夕飯の準備をした。キャンプのメニューは 必ずカレーで、中身は肉など入っておらず安いソーセージと恐ろし く