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12月 24, 2020の投稿を表示しています

Vol.11 「風薫る時代」

 Vol.11 「風薫る時代」 自宅から高校までの通学ルートに国際通りがあった。まだ復帰前 だから観光客が賑わう場ではなく、最新の流行発信地として県民に 機能していた。雑誌やテレビの情報がダイレクトに反映されていた し、街行く人々を眺めるだけでも刺激があった。僕もここで遊びを 学び、大人の社会を知るようになった。それは坊主頭に少し毛が生 えた程度の変化かも知れないが、僕にとっては強い影響だった。 その頃はベトナム戦争が激化しており、アメリカは次第に内から 病んでいき、世界は少しずつ暗い影を落としていた。皮肉にも戦争 そのものが沖縄の景気を盛り上げてくれた一面と、米軍兵の事件が 多発して県民の怒りが激しくなる一面の表裏を持ち合わせていた。 僕が高校に入る前年(1969 年)、佐藤・ジョンソン会談で沖縄返還 合意の共同声明が発表され、この島は世界の暗さを吹き飛ばすだけ のエネルギーで充満していた。県民誰もが複雑な感情を抱えながら も明るい未来を掴もうと必死だったのである。 そんな時期に僕は新しい友人たちと新しい生活を楽しんでいた。 ある日、男だけ4、5人が集まり本島北部へキャンプを企てた。 テントを担ぎ(雨で濡れるとクソ重くなる米軍払い下げのテントだ った)、バスを乗り換え那覇から本島最北端の岬へと向かった。車 窓から「やんばる」の景色を眺めていると心が落ち着くのが分か る。それは少年の頃から感じていたものだった。 目的地に到着するとまっさきに岬の先端に立ち、前方の小さな島 を見つめた。それは鹿児島県の与論島。日本だった。 「こんな近くに日本が見えるけど、パスポートが必要なんだな」 「よし、俺は高校を卒業したら本土へ行くぞ」「俺も」「俺も」。 不意に誰かが「沖縄を還せ~」と大声で歌った。当時流行っていた 反戦歌だった。すぐにみんなも加わり歌った。僕たちの声は波で消 されて何処にも届かなかったけれど、僕らの中で何か熱いものが生 まれたのは確かだった。それはおぼろげで決して明確なものではな かったけれど。 沖縄世、中国世、アメリカ世、ヤマト世...。僕らは状況に従って 何処かに属され、しかし何処にも属されていないような宙ぶらりん の沖縄の青年だった。 テントを張り終わると夕飯の準備をした。キャンプのメニューは 必ずカレーで、中身は肉など入っておらず安いソーセージと恐ろし く