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9月 14, 2020の投稿を表示しています

Vol.7 「音楽の時代」

Vol.7 「音楽の時代」 胎児は母の鼓動を無意識下で感 じ と り 、自身の心音を原点として誕生し、 様々な音を聴きながら生きることになる。 音は人と密接な関係を結び、 心にも体にも多くの影響を与え る 。 地球は音で溢れている。 ならば音楽を楽しむことは誰もが持っている資質なのだろう 。 僕は小学校高学年ぐらいで音楽に魅了された。 テレビやラジオか らヒット曲を知り、 やがて海外の曲も聴くようになった 。 1964 年 は僕が最も好きなビートルズが日本でレコードデビューを果たした年だが、 まだ誰もが聴いている訳ではなく、日本が彼らに熱狂するにはもう少し時間がかかった。 僕は フォークソングから懐メロ、 オ ールディーズ 、 ジャズ 、 流行りの歌謡曲まで 耳に入るものなら何でも聴いていた 。 僕にとって音楽は世界を知るための入口だった 。 ある日、 友人が学校に トランペットを持ってきた。 進学すれば吹奏楽部に入るらしい。 金メッキ に仕上がった ピカピカ の楽器は間近で眺めると本当に美しかった。 友人は練習をは じめたばかりでお世辞にも上手いとは言えなかったが 、 演奏する姿は 「 輝かしい 未 来 」 の 象徴のように見えた 。 だから僕は帰宅すると 「中学生にな ったら 吹奏楽部に入るからね ! 」   と父と母に宣言した。 「那覇中は音楽の名門だろ。 部員の多くが幼い頃から楽器を演奏 しているらしいぞ 。 言わば エリートたちの集まりだ。 楽器もないお前にはちょっと無理だな ぁ 」 父は屈託のない笑顔を浮かべながら軽いつもりで言った と思うが、僕は傷ついた。 「 ウチに は楽器を買う金なんかないぞ 」そんな父の言葉に僕は益々 ムキになった。 「楽器なんか持ってなくても関係ない 。 音楽室にあるヤツで十分。 誰よりも練習して誰よりも上手くなって誰よりも早く プロのミュー ジシャンになるんだ ! 」 ああ、 僕は勢いだけで人生の目標まで決めてしまった 。 中学生になると 当然のように吹奏楽部に入部した。 部員は1年生だけでも 70 人以上はいた 。 中には3歳の頃から音楽を始めた者や自分の楽器を持っている者もいて、 音楽

Vol.6 「糸満0番地・港町大衆食堂」

Vol.6 「糸満0番地・港町大衆食堂」 港町の朝は早い。 僕とオバアは まだ夜の香りが残る朝4時には 食堂へ行って準備をはじめた。 店員たちと掃除を終えると、オバアたちはスープを作ったり 具材を細く切ったりと支度をはじめる。 その間、僕はテーブル上の割り箸や調味料を足したり、 大きなヤカンに入ったアイスティーを運んだ。 厨房にスープのにおいが漂いはじめると、朝一番のお客さんたちがやってくる。 港町では夜明け前から働く人が多く、店は早朝から賑わっていた。 「いらっしゃい!」 僕は声を出してお客さんを迎えた 。 元々、人を観察するのが好きだったので店員さんの動きはすぐに把握した 。 厨房が忙しくなれば麺の上に具材をトッピングしたり、スープを注いだ。 麺の湯切りもやった 。 意外とコツがあることに気づき、慣れるまで少し時間がかかった。 基本、スープはオバアが作るのだが、僕も味見をして神妙な面持ちでコクリとうなずいた。 はたから見ればつまみ食いの ガキんちょ だが、本人としては 一流のシェフのように振舞っていた。 店内が忙しくなれば食器を洗ったりテーブルを拭いたり、時にはレジも担当した。 子どもだからだろう、お客さんはみんな僕に優しかった。 ヤクザ風の怖いニーセーターさえも笑顔で話しかけてくれた。 お金をいただき、「ありがとうございました」と声を出すと、一人前になった気がした。 そして何と言っても嬉しいのは、 自分が作った(手伝った)ソバを お客さんが喜んで食べくれることだ。 みんなが美味しそうな顔をしていると僕も笑顔になった。 振り返ると オバアの店を手伝って手間賃を貰った記憶はない。 勿論 、小遣いとして頂戴はしたと思う。 でもそれが記憶にない。 きっと手伝うこと自体に手間賃以上の価値を見つけたのだろう。 オバアには本当に良い経験をさせて貰ったと感謝している。 僕は仕事でお金を得る喜びの前に、 お客さんが満足することに純粋な喜びを感じることが出来たのだ。 それは少年時代の何物にも代え難い経験であり、歳を取るほどに実感していることだ 。 糸満0番地の大衆食堂は、味自慢とオバアの人柄で随分と繁盛し