Vol.7 「音楽の時代」

Vol.7 「音楽の時代」
胎児は母の鼓動を無意識下で感 じ と り 、自身の心音を原点として誕生し、 様々な音を聴きながら生きることになる。 音は人と密接な関係を結び、 心にも体にも多くの影響を与え る 。 地球は音で溢れている。 ならば音楽を楽しむことは誰もが持っている資質なのだろう 。 僕は小学校高学年ぐらいで音楽に魅了された。 テレビやラジオか らヒット曲を知り、 やがて海外の曲も聴くようになった 。 1964 年 は僕が最も好きなビートルズが日本でレコードデビューを果たした年だが、 まだ誰もが聴いている訳ではなく、日本が彼らに熱狂するにはもう少し時間がかかった。 僕は フォークソングから懐メロ、 オ ールディーズ 、 ジャズ 、 流行りの歌謡曲まで 耳に入るものなら何でも聴いていた 。 僕にとって音楽は世界を知るための入口だった 。 ある日、 友人が学校に トランペットを持ってきた。 進学すれば吹奏楽部に入るらしい。 金メッキ に仕上がった ピカピカ の楽器は間近で眺めると本当に美しかった。 友人は練習をは じめたばかりでお世辞にも上手いとは言えなかったが 、 演奏する姿は 「 輝かしい 未 来 」 の 象徴のように見えた 。 だから僕は帰宅すると 「中学生にな ったら 吹奏楽部に入るからね ! 」   と父と母に宣言した。 「那覇中は音楽の名門だろ。 部員の多くが幼い頃から楽器を演奏 しているらしいぞ 。 言わば エリートたちの集まりだ。 楽器もないお前にはちょっと無理だな ぁ 」 父は屈託のない笑顔を浮かべながら軽いつもりで言った と思うが、僕は傷ついた。 「 ウチに は楽器を買う金なんかないぞ 」そんな父の言葉に僕は益々 ムキになった。 「楽器なんか持ってなくても関係ない 。 音楽室にあるヤツで十分。 誰よりも練習して誰よりも上手くなって誰よりも早く プロのミュー ジシャンになるんだ ! 」 ああ、 僕は勢いだけで人生の目標まで決めてしまった 。 中学生になると 当然のように吹奏楽部に入部した。 部員は1年生だけでも 70 人以上はいた 。 中には3歳の頃から音楽を始めた者や自分の楽器を持っている者もいて、 音楽に対する考え方も技術においても凄 い人ばかりだった。 僕はスタート地点でだいぶ引き離された気分になった が 「 音楽を愛する気持ちは誰にも負けないぞ」 と、 とりあえず抽象的な精神論で対抗 し た 。 音を自在に奏で、 聴く人を感動させる。 そんな漠然とした夢を抱いて僕の音楽活動ははじまった。 その頃にはジャズも聴いており、 演奏することの格好良さも知った。 特にジャズの即興演奏には「音はこんなにも自由なんだ!」  と衝撃を受け、音楽への想いは高まっ ていった 。 しかし … 。 現実は甘くなかった。 部活はとにかくハードで授業前の早朝練習から始ま り、放課後は日が暮れるまで練習した 。 上手くなるには厳しい練習は当然だし、僕もそれなりに上達したと思うが、 音楽を知れば知るほど部活の練習方法に違和感を覚えた。 僕たちは四六時中練習に励み、自分たちの目指す音楽を模索したが、 どんなに上手く出した音でも先生が求める音でなければ 、それは違う音で下手な音と扱われた 。 さらに 先生は僕たちに完璧な音を求めた。 完璧な音とは彼の考える正しい音であり、それ以外は音で なかった。 正確な音程とリズムを追求していくだけの練習方法は、 僕から音を奏でる楽しさを奪い取り、いつしか 一定の音を刻むメ トロノームのように演奏をするようになっ た 。 それはもう表現とは言えないかも知れない。 けれどもまだ 中学生だった僕には他に選択肢がないように思えた。 我が校の吹奏楽部は九州一になって全国大会に出場するという大きな目標があった。 そうなれば沖縄初の快挙である 。 僕は演奏の苦しさを忘れるためにもその目標に没頭することにした。 こうして 「音楽」 が 「音が苦」 となり、 ただ勝つためにだけに僕は音楽を学んだ 。 「 優勝すればその先に音を奏でる楽しさがある 」  そう信じて疑わず、ただ勝つためだけに音楽を続けていた 。 つづく

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