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Vol.6 「糸満0番地・港町大衆食堂」

Vol.6 「糸満0番地・港町大衆食堂」
港町の朝は早い。 僕とオバアは まだ夜の香りが残る朝4時には 食堂へ行って準備をはじめた。 店員たちと掃除を終えると、オバアたちはスープを作ったり 具材を細く切ったりと支度をはじめる。 その間、僕はテーブル上の割り箸や調味料を足したり、 大きなヤカンに入ったアイスティーを運んだ。 厨房にスープのにおいが漂いはじめると、朝一番のお客さんたちがやってくる。 港町では夜明け前から働く人が多く、店は早朝から賑わっていた。 「いらっしゃい!」 僕は声を出してお客さんを迎えた 。 元々、人を観察するのが好きだったので店員さんの動きはすぐに把握した 。 厨房が忙しくなれば麺の上に具材をトッピングしたり、スープを注いだ。 麺の湯切りもやった 。 意外とコツがあることに気づき、慣れるまで少し時間がかかった。 基本、スープはオバアが作るのだが、僕も味見をして神妙な面持ちでコクリとうなずいた。 はたから見ればつまみ食いの ガキんちょ だが、本人としては 一流のシェフのように振舞っていた。 店内が忙しくなれば食器を洗ったりテーブルを拭いたり、時にはレジも担当した。 子どもだからだろう、お客さんはみんな僕に優しかった。 ヤクザ風の怖いニーセーターさえも笑顔で話しかけてくれた。 お金をいただき、「ありがとうございました」と声を出すと、一人前になった気がした。 そして何と言っても嬉しいのは、 自分が作った(手伝った)ソバを お客さんが喜んで食べくれることだ。 みんなが美味しそうな顔をしていると僕も笑顔になった。 振り返ると オバアの店を手伝って手間賃を貰った記憶はない。 勿論 、小遣いとして頂戴はしたと思う。 でもそれが記憶にない。 きっと手伝うこと自体に手間賃以上の価値を見つけたのだろう。 オバアには本当に良い経験をさせて貰ったと感謝している。 僕は仕事でお金を得る喜びの前に、 お客さんが満足することに純粋な喜びを感じることが出来たのだ。 それは少年時代の何物にも代え難い経験であり、歳を取るほどに実感していることだ 。 糸満0番地の大衆食堂は、味自慢とオバアの人柄で随分と繁盛していた。 人気の沖縄ソバは1日で約 400人分を作り、他のメニューも飛ぶように売れた。 時は流れ て、糸満もだいぶ 変わっ たようだ 。 誰もが住みやすい街になったようだが、 あの頃のほとばしるようなエネルギーも猥雑なパワーも今は何処にもない 。 もう僕のオバアもいない。 平和食堂は誰かが受け継いだと聞いていたが、今はどうなっているか分からない。 僕は糸満からすっかり遠のいてしまった。 今も思い出すのは港町の喧騒。 食堂の活気。厨房の熱気。 お客さんがモリモリ食べる姿や美味しいと喜ぶ表情 。 汗を流すオバアと近所のアンマーたち。 彼女たちの 陽気な声。笑顔。 そして … 。 そして楽しそうに働くオバアの大きな背中だ。 つづく

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Vol. 1「はじまりのはじめに」

ハイサイ、マイクおじさんです。生粋のウチナーンチュ(沖縄の人)ですが、僕をマイクと呼ぶ友 人が多いので、 自分でもそう名乗っています。 どんなヤツかと言う と、何と『やんばる共和国』の大統領です。 と言っても偉いわけで も有名なわけでもなく、ただ楽しいことが好きな普通のおじさんです。 僕は人生をより良く生きるために沖縄本島北部、いわゆる『やん ばる』に住んでおり、とある山の頂を購入して自分のオアシスを作 っています。 そのオアシスこそが『やんばる共和国』です。 まあ、 僕が勝手に名前をつけて勝手に建国する予定ですけど。周囲には 「なんか変なことをしている人だなー」と思っている方も多いと思 います。 元々は那覇で商売をはじめ、飲食店を中心に 13 店舗を展開し、 ビジネスマンとしてはそれなりに成功していました。でもね、その どれもが本当にやりたい事ではない気がしたんですよね。だからそこから飛び出しました。 当然、反対する人もいましたが、 でも自分の人生は自分のもの、好きなように生きるのが僕のライフ スタイルだと分かったんだですよ。他人を気にして生きるのも息苦 しいし、そんな事に慣れてしまうのも勿体ないよね。安定だけを考 えて同じ場所にとどまるのも窮屈だし、失敗を恐れて前に進まない のも後で後悔しそうだしね。 第一、自分に嘘をついてまで安定・安 住・安心の生活にこだわる必要はないと思う。時には放浪者、よそ 者、はみ出し者などと言われても一向に構わない。 自分が楽しいと 思えることをやるのが一番だと思っています。さて、これから僕が大統領になるまでの半生を語ろうと思います。 それが立派な教訓になるとは全く思いませんし、単なる暇つぶし程 度かも知れません。それでもこれを読む人たちに、自分のやりたい 事をはじめる楽しさ、道を切り開いていくことの素晴らしさを知ってもらい、 少しでも元気になればと思っています。 それに『やんばる』も好きになって欲しいんだ。 ここは僕が人生 も半ばを過ぎて、ようやく見つけた大切な場所なんだ。 勿論、幼い頃から知っていた場所なんだけど、何というか、いろ いろな事を経験して、ようやく再発見した場所なんだ。きっとみん なも気に入ってくれると思うよ。そんなわけで、次回から僕の物語をはじめましょうねー。 つづく

Vol.21 「ダラスの熱い日」

 Vol.21 「ダラスの熱い日」 バスは荒野を走り続けていると、白い砂塵の中からダラスという大きな街が現れた。僕は予定通りここで下車した。ダラスでの目的は、アメリカで最も人気の高かった大統領、ロバート・ F ・ケネディが暗殺された場所を見たかったからだ。少年の頃、そのニュースを聞いて「アメリカで一番偉い人が殺された」と、衝撃と共に記憶に残っていた。ダラスは軍事産業や油田で繁栄し、その後も続々と大企業が集まってきた経済都市としての印象が強い。テキサス州はアメリカでも二番目に大きな州で(一番はカリフォルニア州)、その面積は日本1.8倍もある。現在は日本企業のトヨタも進出している。そのせいか通りでもよく日本人を見かけ、ダイソーや紀伊國屋、牛角にくら寿司もあるそうだが、僕が訪れた時代は日本人を見ることはなかった。ちなみにダラスはセブンイレブン発祥の地でもある。とにかくやたら大都会なので、僕はいろいろと観光しようと計画を立てていた。 最初に訪れたかったのは、やはりケネディ大統領が暗殺されたディーリープラザナショナルヒストリックランドマークディストリクトという、やたらと長い名前の場所だった。目的地の名前を覚えられないから迷子になっては大変だと、わずか徒歩5分という近場のホテルを予約していた。ホテルで少し休憩し、そろそろ出発しようかと思っていた矢先に僕の体内に異変が起きた。バスに長時間も揺られていたからか便秘になってしまったのだ。確かにバスでもお腹の具合が気になっていたし、体の不調も気になっていた。それが次第に重く鈍い痛みとして現れだしたのだ。「とにかく出すものを出して、さっさと出かけよう」。僕はまだ楽観的な気持ちでトイレに向かった。 結局、僕は1日中ホテルの部屋(正確に言えばトイレ)にこもり、ひたすら力を振り絞った。本当に1日中だ。腹痛はどんどん酷くなり、吐き気にも襲われた。玉のような汗が大量に飛び出したが、便は飛び出なかった。永遠と思われるほどの時間を便器に座り続けた。「このままここで死ぬのではないか?」と思えた。苦しみが続く中、僕はひたすら便座の壁を見つめていた。原因を考えてみた。それは今回の旅行での食生活に関わる重大なことだった。理由は少しでも長い時間をアメリカで過ごしたいためだった。手持ちの金は決まっているため、お金を節約した分だけもっと長く、もっと遠くへ行けるのも楽

Vol.24 「ヘミングウェイの庭」

 Vol.24 「ヘミングウェイの庭」 アメリカを車(僕の場合はバス)で横断していると、不思議な気分に襲われる時がある。それは何の代わり映えもない景色をずっと走り続けている時に。車はずっと続く一本道を何時間も走っている。やがて遠く、地平線の向こうに小さな町がおぼろげに見えてくる。最初は小さな町があるのだなと認識するが、それが次第に様相を呈し、巨大な都市として姿を現すのだ。この感覚は日本では味わったことがなかった。 その日も僕は車窓からの風景に見飽きてしまい、夜ともあってウツラウツラとしていると、遠くに小さな町の光を見つけた。てっきり次の停車駅であるマイアミに到着するのだと思っていた。すると、何も無いフリーウェイに突如、光り輝く未来都市が出現したのだ。僕は叫んだ(勿論、心の中で)「あれは未来都市だ!僕は鉄腕アトムで見たぞ!」と。とにかくバスの中で興奮しながらアタフタしていた。と同時に「どうして乗客たちはもっと驚かないのだろう?バスの運転手はのんびりしている」そう不思議に思っていた。結論を言えば何て事はない「ディズニーワールド」だった。今と違って情報の少ない時代だったから、それが何か分からずにひたすら驚いたのだ。誰もが知るディズーワールドを、闇の中に浮かぶ未来都市と勘違いしたことは恥ずかしい思い出のひとつだ。 僕の叔母さんが住んでいる近くに、ヘミングウェイの家があると言う話を聞いて行ってみた。そこはキーウエストという場所で、アメリカの最南端だった。僕はついに南の端まで来てしまったのだ。キーウエストは小さな島々の最先端にあって、キューバのハバナが目と鼻の先である。セブンマイルスブリッジによりアメリカと結ばれており、その長い橋を車で渡っていると、青い海を間近に感じることが出来て、まるで船に乗っているような気分だった。美しい島だった。19世紀に建てられた南国ビクトリア風の木造の屋敷が数多く残っており、それがヤシの木に覆われているのを眺めていると、人が豊かに生きる理想の土地のように感じられた。 その頃から建築物にも興味があったのだろう、ビクトリア風の住まいを体験したくてヘミングウェイの家を訪れた。観光地として人気が高く、僕が到着した頃には家中が客でごった返しており、全く落ち着く気分ではなかったが、庭に出てのんびりしていると、ランチタイムなのか客もまばらとなり、ようやく落ち着いた