スキップしてメイン コンテンツに移動

Vol.12 「音楽、その憧憬の果て」

 Vol.12 「音楽、その憧憬の果て」


音楽には散々苦しんできたから、高校で音楽クラブに所属しよう

とは思わなかった。それでも放課後になると友人たちの家へ行き、

互いのレコードを聴いては感想を話し合い、友人宅のギターを弾い

ては楽しんでいた。

その頃の流行歌は、社会性をテーマにした魂の叫びのような曲か

ら耳心地の良い軽やかな曲の方へ移り変わった。ひとり静かに聴く

時代からみんなで楽しく歌う時代になったのだろう。それは僕の抱

えていた音楽への精神的束縛からの解放と合致し、音楽の趣味もよ

り楽しく、より自由な方へと向かっていった。


2年の時に文化祭があり、クラスで「何をするか?」を話し合っ

た。協議した結果、当時流行りの「歌声喫茶」を企画したのだった。

歌声喫茶とは、ギターやピアノなどの生演奏があり、お客さんと一

緒に歌うことの出来る喫茶店のことで、50年代に登場してブーム

となったが70年代からはカラオケが主流となり廃れていった。新

宿では学生たちが歌声喫茶に集まり、ともに語らい、ともに歌って

いた。その頃はもう下火になっていたが、都会の若者たちに影響さ

れての企画だった。

学園祭で一番驚いたのは、先生がすべてを生徒に一任させたこと

だった。生徒の自主性を尊重する祭りなのだろう。僕らは演奏の曲

目からタイムスケジュール、バンド構成、楽器の調達、ステージや

客席など教室のレイアウト、飲食メニュー、店内の美術や照明器具

などすべて自分たちで決めて準備をした。

演奏チームは知人から楽器を借りて演奏リストを作って練習をは

じめた。僕は音楽経験者なのでウッドベースを担当しステージに立

つことになった。


クラスの誰もが意見を交わして音楽構成を作り上げた。ボーカル

の歌い方や盛り上げ方もみんなで考えた。そんな細かい演出までみ

んなで手がけるのが僕には新鮮だった。当然、意見が違うことも出

てきて度々口論となった。みんなで決めるのは大変だったけど、あ

らかじめ決まった道に沿って歩くより新しい道を自分たちで作るこ

との難しさと面白さの方が断然に楽しかった。

学園祭を成功させるため自由にアイディアを出すこと。計画を行

動に移し成功に導くこと。そのための責任は自分たち自身にあるこ

と。そんなひとつひとつが僕は本当に嬉しかったのである。


「歌声喫茶」が成功したかどうかは僕にとってあまり意味を成さ

ないが、まあ、正直大成功したと思う。しかしそれよりも意味があ

ることは、自分で音を作って演奏したことだった。ステージではメ

ンバーと協力しながら自分の好きな音を出した。上手く出せた音、

即興で出した音、外れてしまった音、いろいろな音が出たと思う。

気負いはあったが変に上手くやろうとはしなかった。持てる技術を

発揮すれば、後は音楽を楽しんで演奏するだけ。

少し時間はかかったけれど、ようやく「音苦」が「音楽」へと昇

華された瞬間だった。県大会優勝だとか全国大会出場などと高いレ

ベルの話ではなく、ある学校の文化祭で起きたささやかな演奏会で

のできごとだ。


十五歳で閉ざしてしまった音楽への憧憬を今ふたたび呼び覚まし、

自由に表現することで得たのは、あるがままの自分だった。僕はそ

のステージをいつまでも記憶にとどめようと願った。湧き上がる喜

びに身を任せながら、その一瞬一瞬を慈しんでいた。

このブログの人気の投稿

Vol. 1「はじまりのはじめに」

ハイサイ、マイクおじさんです。生粋のウチナーンチュ(沖縄の人)ですが、僕をマイクと呼ぶ友 人が多いので、 自分でもそう名乗っています。 どんなヤツかと言う と、何と『やんばる共和国』の大統領です。 と言っても偉いわけで も有名なわけでもなく、ただ楽しいことが好きな普通のおじさんです。 僕は人生をより良く生きるために沖縄本島北部、いわゆる『やん ばる』に住んでおり、とある山の頂を購入して自分のオアシスを作 っています。 そのオアシスこそが『やんばる共和国』です。 まあ、 僕が勝手に名前をつけて勝手に建国する予定ですけど。周囲には 「なんか変なことをしている人だなー」と思っている方も多いと思 います。 元々は那覇で商売をはじめ、飲食店を中心に 13 店舗を展開し、 ビジネスマンとしてはそれなりに成功していました。でもね、その どれもが本当にやりたい事ではない気がしたんですよね。だからそこから飛び出しました。 当然、反対する人もいましたが、 でも自分の人生は自分のもの、好きなように生きるのが僕のライフ スタイルだと分かったんだですよ。他人を気にして生きるのも息苦 しいし、そんな事に慣れてしまうのも勿体ないよね。安定だけを考 えて同じ場所にとどまるのも窮屈だし、失敗を恐れて前に進まない のも後で後悔しそうだしね。 第一、自分に嘘をついてまで安定・安 住・安心の生活にこだわる必要はないと思う。時には放浪者、よそ 者、はみ出し者などと言われても一向に構わない。 自分が楽しいと 思えることをやるのが一番だと思っています。さて、これから僕が大統領になるまでの半生を語ろうと思います。 それが立派な教訓になるとは全く思いませんし、単なる暇つぶし程 度かも知れません。それでもこれを読む人たちに、自分のやりたい 事をはじめる楽しさ、道を切り開いていくことの素晴らしさを知ってもらい、 少しでも元気になればと思っています。 それに『やんばる』も好きになって欲しいんだ。 ここは僕が人生 も半ばを過ぎて、ようやく見つけた大切な場所なんだ。 勿論、幼い頃から知っていた場所なんだけど、何というか、いろ いろな事を経験して、ようやく再発見した場所なんだ。きっとみん なも気に入ってくれると思うよ。そんなわけで、次回から僕の物語をはじめましょうねー。 つづく

Vol.21 「ダラスの熱い日」

 Vol.21 「ダラスの熱い日」 バスは荒野を走り続けていると、白い砂塵の中からダラスという大きな街が現れた。僕は予定通りここで下車した。ダラスでの目的は、アメリカで最も人気の高かった大統領、ロバート・ F ・ケネディが暗殺された場所を見たかったからだ。少年の頃、そのニュースを聞いて「アメリカで一番偉い人が殺された」と、衝撃と共に記憶に残っていた。ダラスは軍事産業や油田で繁栄し、その後も続々と大企業が集まってきた経済都市としての印象が強い。テキサス州はアメリカでも二番目に大きな州で(一番はカリフォルニア州)、その面積は日本1.8倍もある。現在は日本企業のトヨタも進出している。そのせいか通りでもよく日本人を見かけ、ダイソーや紀伊國屋、牛角にくら寿司もあるそうだが、僕が訪れた時代は日本人を見ることはなかった。ちなみにダラスはセブンイレブン発祥の地でもある。とにかくやたら大都会なので、僕はいろいろと観光しようと計画を立てていた。 最初に訪れたかったのは、やはりケネディ大統領が暗殺されたディーリープラザナショナルヒストリックランドマークディストリクトという、やたらと長い名前の場所だった。目的地の名前を覚えられないから迷子になっては大変だと、わずか徒歩5分という近場のホテルを予約していた。ホテルで少し休憩し、そろそろ出発しようかと思っていた矢先に僕の体内に異変が起きた。バスに長時間も揺られていたからか便秘になってしまったのだ。確かにバスでもお腹の具合が気になっていたし、体の不調も気になっていた。それが次第に重く鈍い痛みとして現れだしたのだ。「とにかく出すものを出して、さっさと出かけよう」。僕はまだ楽観的な気持ちでトイレに向かった。 結局、僕は1日中ホテルの部屋(正確に言えばトイレ)にこもり、ひたすら力を振り絞った。本当に1日中だ。腹痛はどんどん酷くなり、吐き気にも襲われた。玉のような汗が大量に飛び出したが、便は飛び出なかった。永遠と思われるほどの時間を便器に座り続けた。「このままここで死ぬのではないか?」と思えた。苦しみが続く中、僕はひたすら便座の壁を見つめていた。原因を考えてみた。それは今回の旅行での食生活に関わる重大なことだった。理由は少しでも長い時間をアメリカで過ごしたいためだった。手持ちの金は決まっているため、お金を節約した分だけもっと長く、もっと遠くへ行けるのも楽

Vol.24 「ヘミングウェイの庭」

 Vol.24 「ヘミングウェイの庭」 アメリカを車(僕の場合はバス)で横断していると、不思議な気分に襲われる時がある。それは何の代わり映えもない景色をずっと走り続けている時に。車はずっと続く一本道を何時間も走っている。やがて遠く、地平線の向こうに小さな町がおぼろげに見えてくる。最初は小さな町があるのだなと認識するが、それが次第に様相を呈し、巨大な都市として姿を現すのだ。この感覚は日本では味わったことがなかった。 その日も僕は車窓からの風景に見飽きてしまい、夜ともあってウツラウツラとしていると、遠くに小さな町の光を見つけた。てっきり次の停車駅であるマイアミに到着するのだと思っていた。すると、何も無いフリーウェイに突如、光り輝く未来都市が出現したのだ。僕は叫んだ(勿論、心の中で)「あれは未来都市だ!僕は鉄腕アトムで見たぞ!」と。とにかくバスの中で興奮しながらアタフタしていた。と同時に「どうして乗客たちはもっと驚かないのだろう?バスの運転手はのんびりしている」そう不思議に思っていた。結論を言えば何て事はない「ディズニーワールド」だった。今と違って情報の少ない時代だったから、それが何か分からずにひたすら驚いたのだ。誰もが知るディズーワールドを、闇の中に浮かぶ未来都市と勘違いしたことは恥ずかしい思い出のひとつだ。 僕の叔母さんが住んでいる近くに、ヘミングウェイの家があると言う話を聞いて行ってみた。そこはキーウエストという場所で、アメリカの最南端だった。僕はついに南の端まで来てしまったのだ。キーウエストは小さな島々の最先端にあって、キューバのハバナが目と鼻の先である。セブンマイルスブリッジによりアメリカと結ばれており、その長い橋を車で渡っていると、青い海を間近に感じることが出来て、まるで船に乗っているような気分だった。美しい島だった。19世紀に建てられた南国ビクトリア風の木造の屋敷が数多く残っており、それがヤシの木に覆われているのを眺めていると、人が豊かに生きる理想の土地のように感じられた。 その頃から建築物にも興味があったのだろう、ビクトリア風の住まいを体験したくてヘミングウェイの家を訪れた。観光地として人気が高く、僕が到着した頃には家中が客でごった返しており、全く落ち着く気分ではなかったが、庭に出てのんびりしていると、ランチタイムなのか客もまばらとなり、ようやく落ち着いた