Vol.13 「ひとり時間」
高校時代の思い出のひとつに「修学旅行」がある。その手のよく
ある思い出話とはちょっと違った、風変わりで、とても個人的なも
のだ。何故なら僕は修学旅行には参加していないのである。
行き先は「東京周辺で、はとバスが走るような観光地がメイン」
という地方学生にはお決まりのコースだった。
僕は少し考えてから、両親に「修学旅行は辞退する」と言った。
当然、親は困惑した。「その代わり、キャンセルしたお金で旅をさ
せて欲しい」と付け加えた。両親はさらに困惑して「みんなと行か
ないで誰と行くの?」と聞いてきた。「いや、ひとりで行くんだよ」
そう僕は言って、ますます困惑する両親を後に、さっさと部屋に戻
った。
クラスメイトのほとんどが修学旅行を楽しみにしていたし、僕の
友人たちもそうだった。けれど僕にそんな気持ちは全くなかった。
勿論、友人たちや彼女との思い出作りも大切だけれど、それ以上に
ひとりで知らない土地を旅してみたかったのである。
「なあマイク、ひとり旅なんて面倒だし寂しいだけだぞ。楽しい
ことがあっても話し相手さえいない。みんなと行く方が何倍も面白
いに決まっている」そう忠告してくれる仲間もいた。その時は笑っ
てごまかしていたが、実際、どうしてそうするのかを上手く説明出
来なかった。
沖縄県民が本土へ行くにはパスポートが必要で、アメリカ合衆国
の出先機関・琉球列島米国民政府に申請して発給された。それを受
取ると、僕は鹿児島行きのフェリーにひとりで乗った。
船には不慣れなため那覇港を出航し数時間後には嘔吐した。目的
地まで2泊3日もかかると思うとゲンナリしたが、甲板から水平線
を眺めているとその先の世界を想像して旅行気分になれた。途中、
何度か大きな揺れがあり、気分は良くなっては悪くなりの繰り返し
で、3度目の嘔吐を終えた頃に船はようやく西鹿児島に着いた。
船場から最寄りの駅へ向かい大阪行きの切符と駅弁を購入した。
そこで初めて「円」を使った。ずっとドルを使ってきたから新鮮だ
ったし、沖縄とは価値観が違うと念を押された気分だった。
プラットフォームに立っていると、大きな鉄の塊が煙を吐きなが
ら入ってきた。間近で見る蒸気機関車は実物よりも大きく感じた
(当時は電車ではなく汽車の旅である)。
旅の目的は「大阪万博」だった。
夜行列車で新たなる長い移動がはじまったが、乗車してみると時
間の長さはさして感じなかった。それは車窓から見る風景が美しか
ったからだろう。遠くまで続く田んぼや畑、緑の林、木造の黒い屋
根など沖縄とは異なる日本の風景に魅了された。途中、汽車がトン
ネルを抜けると煤で顔が真っ黒になった。周囲に乗客がいなくて良
かったとホッとしたと同時に、窓に映る自分の顔が、昔漫画で見た
「煤で真っ黒の乗客」と全く同じだったので笑ってしまった。
硬いシートに身を深くかがめ、過ぎゆく風景を眺めていると「そ
れにしても... 両親はよく理解してくれたなあ ... 」などと思い返して
いた。普通の親なら「アンタ何馬鹿なこと言ってんの。みんなと一
緒に修学旅行に行きなさい」と諭すかもしれない。でも両親は何も
言わず僕の意見に賛同してくれた。それが今になってようやく身に
沁みていた。
長時間の移動を経てようやく目的地の大阪万博にたどり着いたが、
疲れは全く無かった。それより早く見てまわりたいと焦ったくらい
だ。会場はとにかく広くて人が多くてウンザリしたが、77カ国が
参加したパビリオン(展示館)にはどれも夢中になった。何時間も
待って鑑賞した「月の石」のただの石ぶりにガッカリもしたが、そ
こにあるすべてが未来を象徴しているようで胸が熱くなった。
そして岡本太郎の「太陽の塔」をひとり眺めた時、圧倒的な未来
を前にして立ち尽くした。次第に喜びが込み上げてきた。今ここに
自分が立っていること。それが嬉しかったのである。
未来を前に、ひとりで立つこと。
僕はどうしてひとりでここまで来たのか、旅の意味をハッキリと
理解した。
中学時代に植えつけられた「全体の中のひとりでしかない自分」。
その呪縛からの解放だった。何十分の一、何百分の一、何十億分の
一でしかない自分を、一分の一の自分であると認めること。
自分で決めて行動すること。すべての行動に責任は伴うし、時に
は厳しいこともあるだろう。それはささやかだけれど希望だ。
僕は目の前に高くそびえる未来を、自分の胸に刻み込もうと、巨
大な塔をいつまでも必死でにらんでいた。