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Vol.5 「はじめての労働」

マイクおじさんの風の吹く場所へ 

 Vol.5 「はじめての労働」


 少年の頃、毎年夏になると決まって 
糸満にある祖父母の家に一週間ほど寝泊まりしていた。 



 1960年代、糸満は大層賑わっていた。 
 漁師町特有の荒っぽい猥雑さがあり 那覇とは異なる活気があった。 

 漁師の数も今よりはるかに多く、 魚市場は人で溢れて、
 当時あったクジラ工場には地元民だけでなく、 
本土からも技術者が多く集まっており、 
町には飲み屋がずらりと並び、 まだ映画館もあった。 



 僕が糸満へ行くのには目的があった。 



 それはオバアが営む食堂があるからだった。 

 場所は糸満0番地。 

 名は平和食堂。 



 人気メニューは 沖縄そば、味噌汁、チャンプルーなど オキナワンスンダード。


 客は威勢のいい 
ウ ミ ン チ ュ ( 漁 師 ) や 
 魚 市 場 で 働 く ア ン マ ー ( 母 )、 
 頭 の 上 に 魚 な ど 商 品 を の せ て 売 り 歩 く カ ミ ア チ ネ ー ( 女 性 の 行 商 )、 
 そ し て 町 の ア シ バ ー ( 遊 び 人 )、
 ニ ー セ ー タ ー ( 若 者 た ち ) だ 。 



 ちなみに0番地とは、 

戦後のドサクサにまぎれて個人が無断で埋め立てた「無願埋立」のこと。
 当時の糸満ンチュたちは、 野山を切り開いて家を建てるように 海を切り開いたという。




 0番地は気概のある糸満ンチュたちの フロンティア・スピリッツを示した場所だった。
 平和食堂はオバアと近所のアンマー2、3人が切り盛りしており、 
店内はエネルギッシュな糸満ンチュの熱気で包まれていた。 


 僕はその雰囲気が気に入り、
 朝から晩まで料理を作るオバアたちや 食事をするお客さんたちを眺めていた。 

 僕のオバアは背が高く骨太で恰幅の良い女性で、 
後ろから眺めると彼女の背中はとても大きかった。
 僕はその背中に信頼と安らぎを感じていたと思う。


 その日も僕はいつものように店内を眺めていたが、 
それだけでは 何だか物足りなくなっていた。 


 つまり働きたくなったのだ。 


 大人になった今の僕なら、
 少年マイクにこう言うだろう。 



 「おい、ガキんちょマイク。 どうせ大人になれば誰もがあくせく働くんだ。 あくせくだぞ。もーホントあくせくだ。 だから遊べる時に 遊べるだけ遊んでおけ。さあ遊べ」


 しかし少年マイクは労働に魅了されていた。 


 頼まれもしないのに お客さんの食べた食器を片付けてテーブルを拭いた。 
 以降、僕のささやかだけど勇気のいる行動がはじまった。 



 最初は思った以上に動き回るのが難しくておぼつかなかった。 
 とにかく仕事を上手くやること、 
そして邪魔にならないようすることで必死だった。 

 お昼もとうに過ぎ客も減ってきた頃、 
オバアは僕を呼んで沖縄ソバを盛って見せた。 


 湯切りした麺を大きな器にのせ、
 三枚肉やカマボコ、ネギなどをトッピングして 最後にアツアツのスープをかける。 


 「お前もやってみるかい?」 と、オバアが聞いた。 

 僕は日頃からオバアの動きを見ていたから、 
少し時間はかかったけれど上手く出来た。 

 オバアは感心した表情をみせて、 
それからは 簡単な仕事があれば僕に与えてくれた。 
 そう。僕は平和食堂の子ども店員となったのだ。 


 おそらく糸満の港町でなければ、 
そしてオバアの大衆食堂でなければ、
 僕は夏休みを大いに遊び呆けてばかりで 働くことなど考えもしなかっただろう。


 いい子でいようとか誰かに褒められようとか、 
そんな考えは一切なく、 純粋にオバアと一緒に働きたかった。 
 勿論、仕事と言っても お手伝い程度のことかも知れない。 

 それでも僕にとっては、大人と同等に扱われるれっきとした労働だったのだ。

 つづく

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