スキップしてメイン コンテンツに移動

Vol.23「約束の地」

 Vol.23「約束の地」


フロリダ州はアメリカでも有数の観光地で、白い砂浜が続くリゾートビーチや、ユニバーサルスタジオ、ディズニーワールドといった人気の観光スポットが数多くある。この地には沖縄在住の時にもお世話になった母の妹(僕の叔母さん)がアメリカ人の旦那さんと住んでおり、久しぶりの再会を果たすために訪れた。僕の叔母さんはマイアミから約40キロ離れたフォートロードデイルの基地に住んでいた。バスを降りると、夏の日差しが強烈で眩しかったが、優しい風が吹いていた。その風にあたっていると、初めての土地なのに何だか懐かしい気分になった。故郷の沖縄に似ていると思い、後で確認してみたら、立地が沖縄とほぼ同緯度ということだった。何か心がざわつき、僕はこの土地がきっと好きなるだろうと予感がした。


叔母の旦那さんは、沖縄で出会って結婚したアメリカ空軍のパイロットで、住まいも基地の中だった。基地内の住居は広々とした敷地で芝生の緑が優しく、揺れるブランコが基地の中だというのに安らぎを感じさせてくれて居心地が良かった。叔母の住む世界には、僕が思い描いたようなアメリカの生活が詰まっていた。テーブルや冷蔵庫が象徴する大型家具や家電品。生活必需品は全て大きく、間取りも充分だった。叔母の子どもたちが冷蔵庫から大きなプラスチックボトルの牛乳を両手で取り出すのを見ると、「豊かだなあ」と唸ってしまう。アメリカでは普通の牛乳を「Whole milk」と言い、量は様々だが、僕が見たのはなんと1ガロン(4リットル)サイズだ。4リットルの市販牛乳って見たこともなかった。子どもが多い家庭には置いているらしい。多分、僕が来たことでガロンサイズにしたのだろう。さらに驚いたのは、当時はまだそれなりに高かったビールが、水よりも安い飲み物として扱われていたことだった。とにかく叔母さん夫婦はビールを良く飲んでいた。仕事が終わると、旦那さんは同僚たちを連れてきて、庭でバーベキューをするのが常だった。分厚くビッグサイズのステーキにビールが山ほどもあった。それを眺めているだけで「マイク、もう心配することは何もない」と言われている気がした。庭の芝生に座り、沈みゆく夕日を眺めながら優しい風を受けていると、僕は終の住処となる理想の地へ来たのだと思えてならなかった。


日中は沖縄のように日差しが強く、暑くてとても外では遊べない。だから叔母さんの幼い娘たちも家中にいることになる。暇なのだろう、僕にやたらと絡んでくる。僕は彼女の人形を手にすると腹話術師のようにおどけて遊んだ。娘たちは大喜びで、それに満足したのか外に出て行った。安心してひとり寛いでいると、娘たちは友人を連れてきたのだ。「またあれやって」とせがむ。僕はお友達にも腹話術師を真似て人形で遊んでやった。子どもたちにとって日本人は初めてなのだろう、僕の容姿や英語のアクセントのおかしさもあってか本当に大喜びしてくれた。問題は翌日だった。まるで基地じゅうの子どもたちと思うほどの大勢が、僕を見るために集まってきたのだ。「ここは保育園か!」と内心思ったが、率先してアジアンピエロとなって子どもたちと遊んだ。とにかく遊んだ。子どもたちとの交流は自分の新たな一面を見つけたようでもあり、調子に乗って大いに遊んだ。パワフルな子どもたちを相手にするのは重労働で大変だったのだけれど。やがてフォートロードデイルの基地には、ピエロを演じるアジアン・ベビーシッターがいると近所で有名になってしまった。子どもたちの楽しそうな様子と叔母さんの満足気な表情を見ていると、確かに僕は腕の良いベビーシッターだったように思った。別になりたくはないのだけれど。


理想の土地でも嫌な現実を目にすることもあった。ある日、バーベキューパーティに黒人の軍人が来た。彼はいつも集まる白人たちより位が高いのか、みんなは彼に気を使い、ゴマをすっていた。ところが彼が帰ると白人たちはボロクソにけなすのである。「ニガー」という言葉も初めて生で聞いた。位の低い彼らの愚痴は最終的に表層的なものに変わる。裏返しに言えば、黒人という皮膚の色だけでしか差別出来ない無能の人々のように僕は思えた。「人種差別」という僕にとっては遠い話だったものを目の当たりにして動揺してしまった。日常の些細な場面で、何の悪意も無く(多少はあるかも知れないが)、普段着を着るように他者を差別すること。それは長い時間をかけて馴染んできた習慣のように思えて、ゾッとしたのだった。


アメリカは表と裏がハッキリとした社会だった。自分もまた「ジャップ」と言われ、差別の対象となるだろう。しかしハッキリしている分、あらかじめ想定されるため対処も可能だ。「差別など知らない顔をして、実は根深くて陰湿なイジメや差別を無意識的に持つ人間」よりもマシだと思った。どの社会にも差別があるならば、僕はここを選ぶだろう。


まだ若く、思想的にも未熟で、しかしエネルギーに満ち溢れた青年マイクは、そんなことを考えながら「いつかまたこの土地へ還って来るだろう」と漠然とだが意識していた。何故なら僕はあの風をいつまでも感じていたかったからだ。僕を優しく包んでくれる風を。だから僕はこの地を「約束の地」とした。

このブログの人気の投稿

Vol. 1「はじまりのはじめに」

ハイサイ、マイクおじさんです。生粋のウチナーンチュ(沖縄の人)ですが、僕をマイクと呼ぶ友 人が多いので、 自分でもそう名乗っています。 どんなヤツかと言う と、何と『やんばる共和国』の大統領です。 と言っても偉いわけで も有名なわけでもなく、ただ楽しいことが好きな普通のおじさんです。 僕は人生をより良く生きるために沖縄本島北部、いわゆる『やん ばる』に住んでおり、とある山の頂を購入して自分のオアシスを作 っています。 そのオアシスこそが『やんばる共和国』です。 まあ、 僕が勝手に名前をつけて勝手に建国する予定ですけど。周囲には 「なんか変なことをしている人だなー」と思っている方も多いと思 います。 元々は那覇で商売をはじめ、飲食店を中心に 13 店舗を展開し、 ビジネスマンとしてはそれなりに成功していました。でもね、その どれもが本当にやりたい事ではない気がしたんですよね。だからそこから飛び出しました。 当然、反対する人もいましたが、 でも自分の人生は自分のもの、好きなように生きるのが僕のライフ スタイルだと分かったんだですよ。他人を気にして生きるのも息苦 しいし、そんな事に慣れてしまうのも勿体ないよね。安定だけを考 えて同じ場所にとどまるのも窮屈だし、失敗を恐れて前に進まない のも後で後悔しそうだしね。 第一、自分に嘘をついてまで安定・安 住・安心の生活にこだわる必要はないと思う。時には放浪者、よそ 者、はみ出し者などと言われても一向に構わない。 自分が楽しいと 思えることをやるのが一番だと思っています。さて、これから僕が大統領になるまでの半生を語ろうと思います。 それが立派な教訓になるとは全く思いませんし、単なる暇つぶし程 度かも知れません。それでもこれを読む人たちに、自分のやりたい 事をはじめる楽しさ、道を切り開いていくことの素晴らしさを知ってもらい、 少しでも元気になればと思っています。 それに『やんばる』も好きになって欲しいんだ。 ここは僕が人生 も半ばを過ぎて、ようやく見つけた大切な場所なんだ。 勿論、幼い頃から知っていた場所なんだけど、何というか、いろ いろな事を経験して、ようやく再発見した場所なんだ。きっとみん なも気に入ってくれると思うよ。そんなわけで、次回から僕の物語をはじめましょうねー。 つづく

Vol.21 「ダラスの熱い日」

 Vol.21 「ダラスの熱い日」 バスは荒野を走り続けていると、白い砂塵の中からダラスという大きな街が現れた。僕は予定通りここで下車した。ダラスでの目的は、アメリカで最も人気の高かった大統領、ロバート・ F ・ケネディが暗殺された場所を見たかったからだ。少年の頃、そのニュースを聞いて「アメリカで一番偉い人が殺された」と、衝撃と共に記憶に残っていた。ダラスは軍事産業や油田で繁栄し、その後も続々と大企業が集まってきた経済都市としての印象が強い。テキサス州はアメリカでも二番目に大きな州で(一番はカリフォルニア州)、その面積は日本1.8倍もある。現在は日本企業のトヨタも進出している。そのせいか通りでもよく日本人を見かけ、ダイソーや紀伊國屋、牛角にくら寿司もあるそうだが、僕が訪れた時代は日本人を見ることはなかった。ちなみにダラスはセブンイレブン発祥の地でもある。とにかくやたら大都会なので、僕はいろいろと観光しようと計画を立てていた。 最初に訪れたかったのは、やはりケネディ大統領が暗殺されたディーリープラザナショナルヒストリックランドマークディストリクトという、やたらと長い名前の場所だった。目的地の名前を覚えられないから迷子になっては大変だと、わずか徒歩5分という近場のホテルを予約していた。ホテルで少し休憩し、そろそろ出発しようかと思っていた矢先に僕の体内に異変が起きた。バスに長時間も揺られていたからか便秘になってしまったのだ。確かにバスでもお腹の具合が気になっていたし、体の不調も気になっていた。それが次第に重く鈍い痛みとして現れだしたのだ。「とにかく出すものを出して、さっさと出かけよう」。僕はまだ楽観的な気持ちでトイレに向かった。 結局、僕は1日中ホテルの部屋(正確に言えばトイレ)にこもり、ひたすら力を振り絞った。本当に1日中だ。腹痛はどんどん酷くなり、吐き気にも襲われた。玉のような汗が大量に飛び出したが、便は飛び出なかった。永遠と思われるほどの時間を便器に座り続けた。「このままここで死ぬのではないか?」と思えた。苦しみが続く中、僕はひたすら便座の壁を見つめていた。原因を考えてみた。それは今回の旅行での食生活に関わる重大なことだった。理由は少しでも長い時間をアメリカで過ごしたいためだった。手持ちの金は決まっているため、お金を節約した分だけもっと長く、もっと遠くへ行けるのも楽

Vol.24 「ヘミングウェイの庭」

 Vol.24 「ヘミングウェイの庭」 アメリカを車(僕の場合はバス)で横断していると、不思議な気分に襲われる時がある。それは何の代わり映えもない景色をずっと走り続けている時に。車はずっと続く一本道を何時間も走っている。やがて遠く、地平線の向こうに小さな町がおぼろげに見えてくる。最初は小さな町があるのだなと認識するが、それが次第に様相を呈し、巨大な都市として姿を現すのだ。この感覚は日本では味わったことがなかった。 その日も僕は車窓からの風景に見飽きてしまい、夜ともあってウツラウツラとしていると、遠くに小さな町の光を見つけた。てっきり次の停車駅であるマイアミに到着するのだと思っていた。すると、何も無いフリーウェイに突如、光り輝く未来都市が出現したのだ。僕は叫んだ(勿論、心の中で)「あれは未来都市だ!僕は鉄腕アトムで見たぞ!」と。とにかくバスの中で興奮しながらアタフタしていた。と同時に「どうして乗客たちはもっと驚かないのだろう?バスの運転手はのんびりしている」そう不思議に思っていた。結論を言えば何て事はない「ディズニーワールド」だった。今と違って情報の少ない時代だったから、それが何か分からずにひたすら驚いたのだ。誰もが知るディズーワールドを、闇の中に浮かぶ未来都市と勘違いしたことは恥ずかしい思い出のひとつだ。 僕の叔母さんが住んでいる近くに、ヘミングウェイの家があると言う話を聞いて行ってみた。そこはキーウエストという場所で、アメリカの最南端だった。僕はついに南の端まで来てしまったのだ。キーウエストは小さな島々の最先端にあって、キューバのハバナが目と鼻の先である。セブンマイルスブリッジによりアメリカと結ばれており、その長い橋を車で渡っていると、青い海を間近に感じることが出来て、まるで船に乗っているような気分だった。美しい島だった。19世紀に建てられた南国ビクトリア風の木造の屋敷が数多く残っており、それがヤシの木に覆われているのを眺めていると、人が豊かに生きる理想の土地のように感じられた。 その頃から建築物にも興味があったのだろう、ビクトリア風の住まいを体験したくてヘミングウェイの家を訪れた。観光地として人気が高く、僕が到着した頃には家中が客でごった返しており、全く落ち着く気分ではなかったが、庭に出てのんびりしていると、ランチタイムなのか客もまばらとなり、ようやく落ち着いた