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Vol.17 「アメリカ」

 Vol.17 「アメリカ」


大学2年の夏にロサンゼルスへ行った。はじめてのアメリカは1ヶ月の滞在予定だった。米国在住の知人である瀬良垣夫妻に連絡すると、いつでも歓迎してくれるという。これで観光と同時に移住者視点で生活情報を得ることが出来る。アメリカ移住を考えていた自分にとっては朗報だった。


成田を出発すると経由先の韓国で十時間も待たされた。それから長い飛行時間を経て、ようやくロサンゼルスに到着した。その間は興奮もあってか、睡眠も上手く取れず(寝ても浅い眠りで)、雲の合間からみえる雄大なアメリカの土地を、ボンヤリと眺めていた。空港に到着すると、瀬良垣さんが笑顔で迎えてくれた。一瞬、英語で話してくるかと身構えたが、終始日本語だった。しばらくして気づいたことだが、彼は英語をほとんど喋らなかった。勿論、日常会話は可能なのだし、ヒアリングも優れているのだが、家では常に日本語で喋り、外出先でも簡単な英単語を使うだけだった。もともと瀬良垣さんが無口だったこともあるのだろうが、僕は滞在中、彼の英語をほとんど聴かなかったと思う。瀬良垣さんは仕事も熱心で、評判も良く(彼は腕利きの庭師だった)、夕食後はテラスに座り、移住の際に持ってきたという三線を弾きながら沖縄方言で歌ってくれた。


観光名所をひと通り観てまわった頃、今度は実際の移住者たちの生活にも触れたくて、瀬良垣さんに日本のコミュニティを紹介してもらった。移住者たちは同じ故郷の者たちでコミュニティを作る。それはとても密な関係で、異国の地で何か起きた場合は、互いに助け合うのだろうし、国の文化を継承し、他国の者たちへ広げていくのも目的なのだろう。日本の移住者たちは、コミュニティへ戻るとみんな日本語を話していたし、日本の雑誌を読んだり、録画した日本のテレビを観たり、懐かしい歌謡曲を歌っていた。特に日本から送られてきた古い雑誌は貴重らしく、みんなで読み回し、暗記するほど何度も読んでいるという。夢を求めてアメリカに渡り、幾歳月も暮らしていながらも、遠い海の向こうにある故郷に思いを馳せる。ずっと前に発売された古い日本雑誌を、今も楽しそうに読む移住者たちを見て、僕は何だか切ない気持ちにもなったりした。


驚いたことに、移住者たちの中には就労ビザを持たずに働いている者もいた。その頃は不法入国に規制もゆるかったし、職種を選ばなければ、いつでも仕事は貰えたという。誰もやりたがらない仕事は、賃金も安いだけあって、働き手も様々だという。平気で遅刻する者もいるし、明らかにやる気のない怠けも者もいるし、時にはマリファナを吸いながら仕事をする者もいるらしい。しかし勤勉であれば、次第に賃金も増え、生活にゆとりも出る。中には汚い仕事から次第にのし上がって成功した者もいる。僕が知っているのは、伊波さんという同じウチナンチュで、空手のストリートパフォーマンスで注目された。伊波さんは自分の知名度を広告に利用し、「 OKI DOG ( Okinawa dog )」というホットドッグ屋をはじめた。味の美味さは勿論のこと、伊波さんのスター性もあって、ついにはミリオネアになったという。いわゆるアメリカン・ドリームである。僕はそんな話を聞くたびに、早く移住がしたくて仕方がなかった。アメリカの食文化や生活にも慣れた頃、もうすぐこの旅も終わろうとしていた。僕はお世話になった感謝を込めて、瀬良垣さんの仕事の手伝いを1週間ほどさせて欲しいと頼んだ。瀬良垣さんは「それは本当に助かるよ。マイクにとっても良い経験になると思う」そう笑顔で言うと、翌日には僕を仕事場へ連れていってくれた。そこはハリウッドの億万長者の住む、ビバリーヒルズの豪邸だった。

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