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Vol. 9「挫折の季節」

 Vol. 9「挫折の季節」



僕たちの吹奏楽部は県大会準優勝で幕を閉じた。九州大会出場が

当たり前だったから惨敗のようなもので、敗退の悔しさに加え部長

としての責任も重くのしかかった。発表後に控え室で音楽指導の先

生に怒鳴られるのを覚悟したが、先生は負けたことに関しては一言

も口にしなかった。先生のその優しさもあの時の僕には無言の重圧

にしか感じられず、部長として何かを言う訳でもなく俯いたままだ

った。そして誰もが無言のまま会場をあとにした。沈黙が僕に終わ

りを告げたのである。


大会後は部活動の無い穏やかでのんびりとした生活になったが、

日々、大事な何かをずっと忘れているような虚しさと苛立たしさに

とらわれた。自分には部活しかなかったから、それ以外に何をして

いいのか分からない。だからクラスメイトが楽しそうに下校する姿

をぼんやりと教室の窓から眺めていたことも幾度もあった。

敗北感が消えることはなかった。それどころか日増しに膨れ上が

り、心を蝕み、何時でも何処でも僕にまとわりついてきた。照りつ

ける日差しも次第に衰えて夏も過ぎていったが、寝苦しい日々はず

っと続いた。

しばらくして僕は吹奏楽部にまた顔を出していた。後輩たちに音

楽を教えていたのである。部員たちと接することで自分の役割がま

だあると感じていたかったのかも知れない。そして少しでもいいか

ら音楽とつながっていたかったのだろう。


あの頃を振り返ってみると、僕の人生の中でも辛く暗い時代では

あったけれど、決して悪いことばかりではなかったように思う。思

いつくままに良かったことを 3 つほどあげてみる。

ひとつ目は部活動の過酷な練習によって、チームワークの素晴ら

しさを教えてくれたこと。部員たちは共に励まし合い切磋琢磨しな

がら上達した。小さな喧嘩はあったけれど互いを認め合っていた。

そんな気持ちの者たちが最後まで残り、チームはより深く完成され

ていった。

ふたつ目は調律を任されたこと。調律とは楽器の音を演奏前に調

整することで重要な役割だった。少しの訓練だけではなかなか出来

ない役目だろう。僕はたまたま耳が良く、普段から先生が調律する

のを何気に観察しており、自然と先生の選ぶ音を理解するようにな

っていた。楽器の音は、ホールの大小、温度や湿気によって随分と

違ってくる。調律が上手くいかないと演奏全体がダメになる。特に

打楽器は難しかった。耳だけでなく手のひらでも振動を感じ、わず

かな音の違いを理解する。リラックスして集中すると、周囲の音が

かき消えて楽器音だけの世界へと入っていく。僕はその瞬間がたま

らなく好きだった。

そして最後に、何と言っても音楽が僕を救ってくれたこと。どん

な辛い時でも音楽があれば楽しくなれたし、夢も与えてくれた。そ

れはほんの束の間の、見果てぬ夢だったかも知れないが、あの頃の

僕にとっては、それは何ものにも代えがたい本物の夢だった。


追記

ビートルズの髪がマッシュルームからボサボサのロン毛となり、

モッズ風のスーツがサイケデリックなヒッピーファッションへと変

わる頃。僕たちは中学最後の演奏会があり、そこでようやくクラシ

ックではなく念願のジャズを演奏した。しかし僕のイメージするジ

ャズとはほど遠く、あくまでも先生の指示通りの音だけを出すこと

に終始した。結局、僕は最後まで自分の音楽をみつけることはなか

った。

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