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Vol.19 「グレイハウンドの旅」

 Vol.19 「グレイハウンドの旅」


1977年の夏、僕は人生で2度目のロサンゼルスへと旅立った。今回は3ヶ月という長い時間をかけて、大陸を隅々まで見渡す予定だった。交通機関はグレイハウンドバスを利用した。グレイハウンドはアメリカ全土を網羅する格安長距離バスのことで、創業は1913年と古く(車が一般に普及する前)、国内を旅するには一番安い移動手段だった。今でこそ誰もが乗るメジャーなバスと認知されており、シートもゆったりして、ドリンクフォルダーやWi-Fi設備もあって快適になったのだが、当時は予定時間に到着することは滅多になく、それどころか数時間の遅れが当たり前で、運転手はサービス精神のかけらも無く、車内では平気でマリファナが吸われていた。バスの中だけでなく、場所によっては駅の治安も悪かった。当時、グレイハウンドは「貧しい人の乗り物」と教わった。乗ってみるとその通りで、乗客に白人の姿は無く、黒人かメキシコ人、又はプエルトリコ人たちがほとんどだった。しかしグレイハウンドのメリットは何といっても料金が安いことだ。さらに周遊券があること。チケット一枚でアメリカ全土、どこでも行くことが出来るし、いつでも好きな場所に立ち寄ることが出来る。金は無いが時間だけはあった僕にはグレイハウンド一択しかなかった。早速、3ヶ月間乗り放題のチケットを購入した。


旅のルートを計画した。ロサンゼルスから出発し、メキシコ、フロリダと南下して、東海岸のニューヨークへ。そして中心を横切るようにシカゴに向かい、さらに北上、カナダを経由して西海岸に戻ってサンフランシスコ、ラスベガス、そして最終ロサンゼルスという反時計回りの行程。実に33州(おまけにカナダを数時間ほど)も横断することになる。僕は劣悪なバスの環境などスッカリ忘れ、これからはじまる旅に心を震わせた。バスに乗り込むと、客は黒人ばかりでアジア人は僕だけだった。後部座席周辺は危ない雰囲気の若者ばかりで、出発直後からドラッグ(主にマリファナかLSD)を吸いはじめた。煙が目立つから運転手に見つかるかと思われるが、彼らはマリファナを深く吸い込み、煙さえも勿体無いとばかりに肺に染み込ませるため、車内はほとんど無煙だった。気づいている様子の運転者もいたのだが、退屈な表情のまま黙って運転を続けていた。


出発してすぐに珍事件が起きた。後方から10歳ぐらいの小太りの子どもがやって来て、僕の隣に座っている客にマリファナを売りはじめたのだ。3本でファイブバックスだと言う。後で知ったが5ドルのことで、ダラーを俗語でバックと呼ぶらしい。隣の客が5ドルを出すと、太った子どもは「おい、いきなり金を出すなよな」と注意していた。きっと少年は先輩たちの言葉を真似たのだろう。マリファナを渡すと「楽しみな」と笑顔を決めて席に戻っていった。その小太りの可愛い坊やがあまりにも大人ぶっていて微笑ましくなったが、これがアメリカの現実なのかと考えてゾッとした。ドラッグはアメリカでは日常的なものであり(警官でも吸っている)、よく目の当たりにするので気をつけるようになった。旅を続けていくうちに、薬でラリった人は分かるようになり、バスに乗る時はラリってる人から必ず離れて座るようになった。


そんなバスで楽しい体験もあった。ある駅から4人の黒人女性が乗り込んで来たのだが、アジア人が珍しいのか僕に声をかけてきた。片言で懸命に話をしていると、ヒット曲の話題になり、僕は自分の好きなアメリカの曲を伝えた。話しかけてきた女性は、その曲を知らなかったが、隣の友人が突然、大きな声でハミングをはじめた。するとそのリズムに合わせて4人の女性がアカペラで歌い出したのだ。いきなりのことで最初はポカンと眺めていたが、それが本当に上手くて感心してしまった。さらに周囲の乗客たちもリズムに合わせて体を動かしはじめた。まるでバス自体がミュージカル映画か、生演奏を楽しむライブハウスのようだった。これは日本の交通機関では、ついぞ経験したことのない貴重な出来事だった。彼女たちは楽しそうに歌い、車内は拍手で包まれた。歌を披露した後、彼女たちの少し照れた笑顔が印象的だった。これもまたアメリカである。「グレイハウンドの旅も悪くない」僕は何処までもまっすぐと続く、果てしない一本道を見つめながらそんなことを思っていた。

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