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Vol.20 「モーテルにて」

 Vol.20 「モーテルにて」



グレイハウンドバスでのアメリカ大陸横断がはじまった。宿泊はなるべく安く済むように心がけた。バスターミナルの長椅子で寝たり、深夜便で移動しながら朝を迎えることもあった。ホテルは大抵が安いモーテルだった。アメリカのモーテルは、日本のようなラブホテルと同様な扱いではなく、格安のビジネスホテルと言った方がピッタリだ。長距離ドライブの客が多いためにフリーウェイの近くにあり、サービスも最小限、場所によっては半年や1年以上も長期に渡って宿泊する者もいる。住居を追われた貧困層たちの最後の逃げ場ともなっており、今でもアメリカの深刻な貧困問題のひとつとなっている。


砂漠地帯をバスは煙を立ててひたすら走り、ニューメキシコ州のアルバカーキに到着した。砂漠の真ん中に町がポッカリあるような所で、多くのネイティブアメリカンが住んでいるという。僕は慣れないバス旅行で疲れ果てており、ターミナルに到着するやいなや、近くの安いモーテルへと直行した。僕はなるべく静かな部屋がいいと思い、フロントから一番離れた角部屋を頼んだ。部屋は小さいがこざっぱりとしていた。ライトは間接照明しかないので日本人の僕には薄暗く感じた。シャワーを浴びる後で飲むビールが欲しくてフロントへと向かった。部屋から出ると、すぐ隣の部屋前でひとりの初老の大男が夕涼みなのか椅子を出して座ってビールを飲んでいた。大男はかなり太っていて、暑いのか上半身は裸だった。僕が軽く会釈して通り過ぎようとすると、大男が話しかけてきた。気さくな方で、ビールを買いに行くと話すと「ビールなら部屋にあるから一緒に飲もう」と誘ってくれた。


大男の部屋には僕の部屋と同じく、ベッドと小さな食卓テーブルしかなかった。ただ、ベッド横のサイドボードには(おそらく妻であろう)女性の写真が飾ってあった。僕たちは椅子に腰掛けて、ビールを飲みながら話をした。彼がこのモーテルの長期滞在者であること知った。写真の彼女は生きているのだろうか?それとも遠く離れた場所で彼の帰りを待っているのだろうか?気になって写真の女性を尋ねてみると、「ガールフレンドだ」とだけ彼は答えた。ビールを2、3本ほど飲むと、旅の疲れか酔いも早く眠くなった。大男は「暑いからシャワーでも入りなよ」と言ってくれた。普段なら断るのだが、ビールで気分が良かったこともあり、彼の部屋でバスルームを使わせて貰った。シャワーから出ると僕も上半身になり、国籍は違えども相通じるものだと呑気に構え、「裸の付き合いもいいな」とふたたびビールを飲みはじめた。そろそろ自分の部屋に戻ろうかと考えていると、初老の大男が不意に僕の腕を撫でてきた。「すべすべしているね」と大男は言った。少し驚いたが「日本人の肌は綺麗だ」と言うので、それを確かめているのかと思った。それから大男は「疲れているみたいだ。少しほぐさないとな」と言って、僕をベッドに寝かせてマッサージをはじめた。分厚く大きな手が僕の体を撫でまわす。僕の肌を見つめる彼の瞳が何と無く潤んでいるのが分かった。これは妙な雰囲気になってしまったと困惑していると、東京のバイト仲間の忠告を思い出した。「アメリカに行ったら気をつけるのはただひとつ。ホモよ!」バイト仲間の女性は断言した。その時は冗談だと思って笑っていたが、今がまさにその時だと直感した。大男はウットリとした表情になっていた。もう時間はない。何としてでも犯されることだけは避けなければならない。僕は今思い出したように「あー、そうだ!故郷のマムにホテルに着いたと連絡しなくちゃ!」と言って立ち上がった。当然、そんな約束はない。「ならここの電話を使いなよ」大男はそう言った。帰さないつもりだろう。緊張が走り、何かを防御するように拳に力が入る。自然と肛門にも力が入った。「いや、電話番号は部屋にあるから、ちょっと部屋まで戻ってかけてからまた来るよ」と言って足早に飛び出した。部屋に戻るとすぐに内鍵を閉めた。はたして大男は数分後にノックしてきた。「まだ電話中だから」とドアを開けなかった。開けてしまえば終わりである。さらに数分間隔で3度もノックをしてきた。大男はさすがに3度目にはイラついたのか、何度もドアを叩いては大声で怒鳴りはじめた。それがドア一枚の出来事で、僕は怖くて震え上がった。フロントに電話すれば済んだかも知れないが、その時は何とか自分で対処しようと必死だったのだ。ようやくドアの音が止み、静寂の中で数時間ほど待った。彼はもう寝てしまったのかも知れない。僕は荷物を持つと音を立てずにモーテルからコッソリと出て行った。外はまだ暗く、時計を見ると午前4時だった。


バスターミナルに戻ると、出発までの数時間の間、長椅子に横になって体を休めた。先ほどの恐怖がまだ残っており、それから一睡も眠れなかった。薄暗い中を始発バスに乗り込み、硬いシートに深く身体を沈めた。バスが走り出すと僕はようやく夜から解放されたように感じた。ぼんやりした頭でその夜の出来事を反芻する。この出来事により、僕は自分の無知のせいで相手を傷つけたのかも知れないと思った。大男の部屋に入り、裸の付き合いだと思いながら一緒にビールを飲み、ベッドでマッサージを素直に受けたら、相手だって勘違いするのも当然である。それは了解の合図とみなされてもおかしくはないだろう。僕がもう少し勇気を出して丁寧に拒否していれば、それで済んだこともかも知れなかった。僕は反省した。この先、何かアクシンデントがあれば、もっと早く適切な行動を取るようにしよう。そんなことをダラダラと考えていると、砂漠の向こうから眩しい朝日が昇ってくるのが見えた。「ようマイク、まだ旅ははじまったばかりだ。さあ、広い世界を見ようじゃないか」そう告げるかのように、太陽はさらに輝きを増し、世界を照らしはじめた。

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