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Vol.22 「今宵、バーボンストリートで」

 Vol.22 「今宵、バーボンストリートで」


グレイハウンドはテキサス州ダラスを離れ、隣のルイジアナ州に向かっていた。今回の目的は全米有数の観光都市であり、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズを見ることである。少年の頃から音楽好きだった僕には、今回の旅の中でも楽しみにしていた場所のひとつだった。ニューオーリンズはアフリカ、フランス、ネイティブアメリカ、カナダ、ハイチ、スペインなど様々な文化が入り混じり、それが独自の文化を築き上げてきた。何だか沖縄にも通じる土地のようだ。ダラスからバスで13時間ほど走ると、ニューオーリンズに到着した。僕はホテルをチェックインしてから(大人気の観光地なので、ホテルの値段が高く、そのため比較的安いホテルは中心地から少し離れた所にあった)、フレンチクォーターをだらだらと歩いた。ヨーロッパの街並みが残った街角では、ダンスを踊る者たちや、楽器を演奏する者たちで、音楽で満ち溢れていた。僕は音の洪水を全身に浴びながらゆっくりと歩いていた。日が暮れ始めると、レストランやバーが店を開けはじめ、通りは観光客で埋め尽くされ、さらに音楽が飛び交い、もはやお祭り状態だった。街そのものが箱庭的と言うか、アミューズメントパークのようだった。


僕は迷う事なくバーボンストリートの目と鼻の先にあるプリザベーションホールへと向かった。そこは1961年にオープンした場所で、ジャズの殿堂とも呼ばれている。歴史ある建築物はオンボロの掘っ建て小屋(良く言えば、崩れかけの倉庫)のようであったが、それがまたジャズを聴く雰囲気を醸し出していた。ホールに入ってしばらくすると、待ちに待った演奏がはじまった。場内は観光客で一杯になり、立ち見席までギッシリと埋まっていた。演奏者のほとんどが高齢のお爺さんたちで、しかし奏でる音は聴く者たちをたちまち魅了した。ニューオーリンズスタイルであるデキシーランドジャズが存分に聴けて僕は音楽に酔ってしまった。この歴史あるホールの雰囲気にも飲み込まれたのだろう。


ジャズ発祥の地。だがそのはじまりは黒人の貧しさだった。1863年、南北戦争に勝利し、自由を手にした黒人奴隷たち。しかし職が少ない者たちが街に溢れ出した。そしてダンスホールや酒場などで楽器演奏をはじめた。この歴史あるプリザベーションホールでさえ、最初は客を呼び込むためだけの黒人たちに演奏させただけだった。当時は南軍の軍楽隊の楽器が、ただ同然の値段で売られていたのも要因のひとつだ。金の無い黒人たちでも手に入った。さらに教養を持つ機会の許されなかったことも要因だった。知識の無い彼らは演奏者であるが楽譜が読めないため、聴いた音楽をうろ覚えで演奏していった。時代の隙間に生まれた偶然と必然の積み重なりがジャズを生み、インプロビゼーション(即興演奏)を創り出した。伝統からはみ出して思うままに創造した音楽が、新たな伝統となる。僕はそのはじまりの場所に、わずかな時間だけでもいたことが本当に嬉しかった。


プリザベーションホールを出ると、古いバーに入り、止まり木に座って本場のウィスキーを飲んだ。アルコール度がかなり高くて強烈だったが、音楽でほろ酔い気分だったためか美味しく感じた。次にピニャ・コラーダというカクテルを頼んだ。当時、バーボンストリートで流行っていたので、それしか名前を知らなかったのもあった。ピニャ・コラーダはラムをベースにパイナップルジュースとココナッツミルクを氷とシィエクしたドリンクで、甘くさっぱりとして熱気に包まれた夜にはピッタリだった。


バーを出ると通りはまだ賑わっていた。涼しい風がアルコールで熱くなった体に心地よい。僕はホテルに戻る前に、もう一杯だけピニャ・コラーダを飲もうと、夜のバーボンストリートをひとり彷徨っていた。

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