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Vol. 8「風のない世界で」

Vol. 8 「風のない世界で」
音楽は人間が創造した芸術だけど影響を与えるのは何も人間ばか りではないそうだ。 植物は音波が葉を揺らし振動が土を伝わり全身で音を感じている。 音楽を聞かせたブドウは、音楽を流さずに育て られたブドウよりも成熟は早く、 味、色、ポリフェノールの含有量 の点で優れたという。 牛も音楽を聴かせるとストレスが軽減され、 ミルクの産出量が増えたり、肉が美味しくなったという実験結果が ある。 まあ、真偽は定かではないけど地上のあらゆる生物は音楽に 影響されていると思っている。 だから人間であれば尚更だろうし、 僕にとっても尚更だった。 音楽に熱中していたその時代にビートルズは来日公演を果たした。 ある者は彼らの歌に熱狂し、そのマッシュルームヘアーとタイトな スーツを「自由の象徴」として歓迎した。 しかし ある者は 来日反対運動を起こし脅迫文まで送った。 彼らが空港からヒルトンホテルへ 向かう高速道路を封鎖し、慶長は厳戒態勢を敷いた。 良くも悪くも 音楽が世界を動かした瞬間だった。 僕も彼らと負けまいと音楽をやっていたが立場は全く違っていた。 当時は「男子が楽器を持つことは軟派でひ弱である」 と 勘違いする生徒が大勢いたし、 影で僕たちを 「シスターボーイ」 と呼ぶ者もいた。 しかし実際の吹奏楽部は軟派とは ほど遠く、地獄のように厳しい練習が 年間 360 日 も 続 き 、 退部する者も少なくな く 、 忍耐力 と 強い意思 がなければとうてい務まらなかった。 厳しいだけならまだ良かった。 問題は僕が 1 ミリたりとも音楽を 楽しめていないことだ。 自分の求める音を殺し、部活指導の先生の 求める音のみを追求した。僕にとっては音楽の牢獄だった。 だから 少しでも抜け出すため、先生が音楽室にやって来る前のわずかな時間、 楽譜の上に隠すようにビートルズの楽譜をはさんで脳内で演奏 していた。 先生に見つかると殴られるので隠れキリシタンのような気分だった。 先生は流行りの曲はいつも小馬鹿にしていた。 自分の音楽こそが 本当の音楽であると自信もあったのだろう。 でも本当の音楽って何だろう? 「何故、この音なのか? 何故、他の音ではいけないのか?」 しかし先生は理由を説明することもなく音の強制を続けた。 次第に誰 も意見を言わなくなり先生の求める音を出し続けた。 当時はスパル タ教育が当たり前の時代だから暴力も酷かった。 音が少しでも外れ ると音楽室にある指揮棒で頭を殴られた。 演奏が上手くなっても自分のポジションで個性を出すことは御法度で、分をわきまえることを求められた。 僕らはあくまでも全体のひとつとして機能していた。 それが僕たちの音楽だった。 僕は部活動を続けるうちに好きだったはずの音楽が全く楽しめず、 自分を苦しめるだけのものに変わってしまった。 そんな鬱屈した日々を送っていた頃、僕にありえないことが起き た。 もはや事件と言ってもいい。 父が楽器を買ってくれたのである。 それはユーフォニュームという金管楽器で当時としてはかなり高額だった。 父が無理をしたことは容易に想像が出来た。 そんな高価な楽器を、父は何も言わずに与えてくれたのである。 僕は自分の楽器があることが嬉しくて部屋に戻るとずっと眺めて いた。 寝るときは枕のそばに置いた。汚れてもいないのに何度も磨いた。 やたら手入れをした。手入れをする箇所がないとまた磨いた。 その無駄とも思える行為こそが楽器への深い愛情と父への感謝を示す表現だった。 両親が僕の音楽を認めてくれたことが嬉しくて、 好きかどうかは別として吹奏楽部は最後まで続けようと決心した。 音楽に明け暮れて2年生になった。 僕らの先輩たちは難なく沖縄一になった。 しかし九州の壁は厚く全国大会出場は果たせなかった。 先生はもう少しで厚い壁を突破出来ると確信し、さらに過酷な練習がはじまった。 音楽に明け暮れて3年生になった。気づけば自分たちが最上級生である。 先生はどこを評価してくれたのか知らないが僕を部長に任命した。 けれど音楽を楽しめない僕には責任が重くのしかかるだけだった。 とにかく部長として悲願の九州大会優勝を実現するしかな いと自分に言い聞かせた。 それにやるからには九州一になりたかったのも事実だ。 それは学校の夢だし、沖縄の夢でもあり、僕もその夢に参加したのである。 そして僕たち3年生は持てる限りの力を尽くしコンクールに挑んだ。 結果は九州大会優勝どころか県大会であっけなく敗退。 こうして僕の音楽人生は終わったのである。

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ハイサイ、マイクおじさんです。生粋のウチナーンチュ(沖縄の人)ですが、僕をマイクと呼ぶ友 人が多いので、 自分でもそう名乗っています。 どんなヤツかと言う と、何と『やんばる共和国』の大統領です。 と言っても偉いわけで も有名なわけでもなく、ただ楽しいことが好きな普通のおじさんです。 僕は人生をより良く生きるために沖縄本島北部、いわゆる『やん ばる』に住んでおり、とある山の頂を購入して自分のオアシスを作 っています。 そのオアシスこそが『やんばる共和国』です。 まあ、 僕が勝手に名前をつけて勝手に建国する予定ですけど。周囲には 「なんか変なことをしている人だなー」と思っている方も多いと思 います。 元々は那覇で商売をはじめ、飲食店を中心に 13 店舗を展開し、 ビジネスマンとしてはそれなりに成功していました。でもね、その どれもが本当にやりたい事ではない気がしたんですよね。だからそこから飛び出しました。 当然、反対する人もいましたが、 でも自分の人生は自分のもの、好きなように生きるのが僕のライフ スタイルだと分かったんだですよ。他人を気にして生きるのも息苦 しいし、そんな事に慣れてしまうのも勿体ないよね。安定だけを考 えて同じ場所にとどまるのも窮屈だし、失敗を恐れて前に進まない のも後で後悔しそうだしね。 第一、自分に嘘をついてまで安定・安 住・安心の生活にこだわる必要はないと思う。時には放浪者、よそ 者、はみ出し者などと言われても一向に構わない。 自分が楽しいと 思えることをやるのが一番だと思っています。さて、これから僕が大統領になるまでの半生を語ろうと思います。 それが立派な教訓になるとは全く思いませんし、単なる暇つぶし程 度かも知れません。それでもこれを読む人たちに、自分のやりたい 事をはじめる楽しさ、道を切り開いていくことの素晴らしさを知ってもらい、 少しでも元気になればと思っています。 それに『やんばる』も好きになって欲しいんだ。 ここは僕が人生 も半ばを過ぎて、ようやく見つけた大切な場所なんだ。 勿論、幼い頃から知っていた場所なんだけど、何というか、いろ いろな事を経験して、ようやく再発見した場所なんだ。きっとみん なも気に入ってくれると思うよ。そんなわけで、次回から僕の物語をはじめましょうねー。 つづく

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 Vol.21 「ダラスの熱い日」 バスは荒野を走り続けていると、白い砂塵の中からダラスという大きな街が現れた。僕は予定通りここで下車した。ダラスでの目的は、アメリカで最も人気の高かった大統領、ロバート・ F ・ケネディが暗殺された場所を見たかったからだ。少年の頃、そのニュースを聞いて「アメリカで一番偉い人が殺された」と、衝撃と共に記憶に残っていた。ダラスは軍事産業や油田で繁栄し、その後も続々と大企業が集まってきた経済都市としての印象が強い。テキサス州はアメリカでも二番目に大きな州で(一番はカリフォルニア州)、その面積は日本1.8倍もある。現在は日本企業のトヨタも進出している。そのせいか通りでもよく日本人を見かけ、ダイソーや紀伊國屋、牛角にくら寿司もあるそうだが、僕が訪れた時代は日本人を見ることはなかった。ちなみにダラスはセブンイレブン発祥の地でもある。とにかくやたら大都会なので、僕はいろいろと観光しようと計画を立てていた。 最初に訪れたかったのは、やはりケネディ大統領が暗殺されたディーリープラザナショナルヒストリックランドマークディストリクトという、やたらと長い名前の場所だった。目的地の名前を覚えられないから迷子になっては大変だと、わずか徒歩5分という近場のホテルを予約していた。ホテルで少し休憩し、そろそろ出発しようかと思っていた矢先に僕の体内に異変が起きた。バスに長時間も揺られていたからか便秘になってしまったのだ。確かにバスでもお腹の具合が気になっていたし、体の不調も気になっていた。それが次第に重く鈍い痛みとして現れだしたのだ。「とにかく出すものを出して、さっさと出かけよう」。僕はまだ楽観的な気持ちでトイレに向かった。 結局、僕は1日中ホテルの部屋(正確に言えばトイレ)にこもり、ひたすら力を振り絞った。本当に1日中だ。腹痛はどんどん酷くなり、吐き気にも襲われた。玉のような汗が大量に飛び出したが、便は飛び出なかった。永遠と思われるほどの時間を便器に座り続けた。「このままここで死ぬのではないか?」と思えた。苦しみが続く中、僕はひたすら便座の壁を見つめていた。原因を考えてみた。それは今回の旅行での食生活に関わる重大なことだった。理由は少しでも長い時間をアメリカで過ごしたいためだった。手持ちの金は決まっているため、お金を節約した分だけもっと長く、もっと遠くへ行けるのも楽

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