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Vol.10 「雨の日もある」

Vol.10 「雨の日もある」 



ハイサイ、マイクおじさんです。
今日も緑深いやんばる地方で自分の夢を実現させようと、せっせ
と山に行っては汗をかいています。疲れた時や気分転換には珈琲を
飲みながら音楽を聴く。古いジャズやハワイアンも好きだけど、最
近は自然の音に耳を傾けているよ。山で聴く音は日々変化し、鳥や
虫たちの音色も違うし、木々や草花の揺らぎも風によって違う。優
しい時もあれば厳しい時もある。ああ、今日は心地よい風の音を聴
きながらこのエッセイを書いているよ。

前回話したように中学時代は「音楽」が「音苦」となってしまっ
たけれど、部活動を続けたことでタフな人間になった気がするよ。
今では困難なことも楽しさに変える術も身についている。ほんと、
人はどんな状況でも成長する可能性があるんだなって思うよ。どん
なに辛い時でも前に進んでいれば必ず光が見えてくる。ほんの小さ
な一歩であっても続けていけば光を見つかる。
もしも今落ち込んでいる人がいるなら、あまり深刻にならないで、
少し距離を置いた状態で自分を見つめながら、目の前のやるべきこ
とに集中すればいいと思う。明けない夜がないように苦しさの向こ
うには喜びが待っているはずだし、第一、そう信じている方が気持
ちも楽になれる。そうそう、辛い中学時代にもね、ちょっとした不
思議なエピソードがあるんだ。今回はその話をしようね。

毎年夏休みには絵を描く課題があって随分と困った。何故なら僕
は絵が本当にヘタクソで(今でもヘタクソだ)、描くこと自体が嫌
いだった。それに夏休みも毎日部活動があってヘトヘトだから課題
は2学期前日にギリギリやるのが普通だった。
やる気はないから絵も適当に殴り書きのように一気に描いた。い
つもならそれで終わりだけど、あの時は何故か書き上げた絵をしば
らく眺めていたんだよ。そしてフと思いついて絵を消すように白色
の絵の具を分厚い油絵のように塗りたくった。画用紙一面を白色で
埋めたあと、フォークを持ってきて今度は白色を部分的に削ってい
った。削ったところから描いた絵が見えてきた。何だか立体的な感
じがしたよ。まあ、ただの思いつきだ。ちょっとやり過ぎだと思っ
たけど書き直しもせず翌日提出をした。
しばらくして僕の絵は沖縄タイムス主催の全沖縄絵画大会で最優
秀賞を受賞してしまった。それは新聞にも取り上げられ、朝の朝礼
でトロフィーまで受け取った。美術の先生は半信半疑で「描くのに
どのぐらいかかったか?」と質問してきた。僕は「1時間です」と
は言わず、勝利の笑みを浮かべながら「莫大な時間を費やした」と
答えた。
しかしその受賞は僕を後ろめたい気持ちにさせたんだ。努力して
の受賞なら素直に嬉しいけど、いい加減なものづくりで周りからチ
ヤホヤされるのが嫌だった。これは僕にとっては全く不可解で不思
議な出来事だ。やる気もなく適当に1時間で描いた絵が沖縄一とな
り、血のにじむような努力を3年間も続けた音楽が惨敗したという
事実。それを受け入れることが僕の中学時代だった。人生とは何と
不思議で何と皮肉なものかと思うよ。だから期待したことが上手く
いかなくても、努力を積み重ねたことが失敗したとしても落ち込む
ことはない。「人生には雨の日もある」それが当たり前だし、だか
らこそ晴れた日が美しく輝いていると思うんだ。

最後に ... 。「音楽」と「音苦」などと冗談交じりで何度か言って
きたけれど、音楽を楽しむことと上手くなるために努力することは
別問題なのは当然のこと。人に聴かせるにはある程度のレベルが求
められるし、さらなる上達が必要。それは「下手でも楽しければ良
い」という問題を超えて違うレベルの話なのだろう。大切なのは上
手くなるように努力しながらも、楽しさを見出すこと。そして好き
であることを忘れないこと。
あの頃の僕はまだそれを理解していなかったと思う。まあ、理解
するには環境も悪かったし若過ぎたのだろう。いずれにせよ今も音
楽が好きであることに変わりはない。はい、マイクおじさんから以
上です。

美しい楽器音や歌声と同じように自然の中で聴こえてくる音もま
た音楽だろうし、沈黙が音楽åの要素であるように胸の鼓動もまた音
楽だろう。
無限に広がる音の世界は今日も豊かに満ちている。
僕たちは音に溢れたこの世界でいつでも音楽と共に生きている。

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